近所の図書館で、Wayne Dyerの本が目に付いたので、借りてきました。1989年の「You’ll See It When You Believe It」という本です。私は、Dyerがテレビに出て講演しているのをたまたま見て、そこで、私が密かに信じている世間の常識とは相容れないことを、どんどん肯定的にしゃっべているのを聞いて、興味を持ちました。Dyerの訳書は、日本では自己啓発書のカテゴリーで、残念なことに、すごく安っぽいタイトルになって、多数出ています。
私のような考えかたは、一くくりに「神秘主義」とか呼ばれるわけですが(悪い言葉の響きですね)、要は、この世の中を唯物的な見方で理解しようするのは無理があると確信しており、目に見えない高次構造を通じた、より高度な理解の方法があるはずであると考えるような態度であると言ってよいのではないかと思います(例えば、二次元空間に住むフラットランド人の生活を三次元空間の人間が観察するという寓話、フラットランドの話を以前、書きました)。われわれの普通の世の中の理解は、時間や空間が私たちが知覚するような様式で存在するということを前提に出発します。時間が存在しなければ、因果関係みたいなものも存在基盤を失うので、現代の通常、科学的といわれる見方は全て否定されてしまいます。つまり、科学の前提となっているものの正当性を疑えば、科学という方法論そのものの恣意性とでもいうべきものに行き当たるということです。
ところで、このDyerの本の中で、Mark Helprinという人の書いた小説、「Winter’s tale」(ハヤカワ文庫に訳書出ています)の「Nothing is random」という章の一節が紹介されていました。「時間」についての記述に、大変、感心したので、書き留めておきたいと思います。
自然や世の中のものがいかに協調的に動いているかという例をあげて、ランダムなものは何もないと、述べた後、この著者は、こう問いかけます。
もし、ランダムなものは何もないとしたら、世の中で起こることは全て、決定論的に、前もって決まっているはずだ。それなら自由意志とは何なのか?
続けて、著者はこう結論します。
答えは単純である。前もって決まっているわけではないのだ。今、決まり、かつて、決まり、将来、決まるのである(つまり、時制と関係のない決定の仕方をするということを言いたいのだと思います)。実は、すべてのこと(過去、現在、未来の出来事)は同時に起こっているのだが、我々人間が、ありのまま全てを理解するための能力が足りないので、「時間」というものが発明されたのである。、、、宇宙は静止しており完全である。 、、、、
言語構造そのものが、時間の観念を内包するので、こうした考え方を言葉で表すのは難しいですね。言葉を使うと、どうしても誤解を生むのは避けられないようです。決定論は、宇宙の始まりの時点で、その後におこること全てが既に決まってしまっているという考え方で、それには明らかに物事の生起を、起点と時間軸に沿った因果関係によって捉えようという従来の態度が認められます。この時間軸と因果関係のワナから逃れられない限り、決定論であれ、非決定論であれ、堂々巡りの水掛け論になるだけです。それに対して、この著者は「あらかじめ」決まってしまっているのではない、宇宙が始まった時点で、同時に現在も未来も存在しているのだ、と言っています。この直感は素晴らしいです。多くの説明不能なできごとが説明できます。そして、なにより、この完全で静止した宇宙という宇宙観は我々の精神に安らぎを与えてくれると思います。
こういう考えと同様の言葉に、鈴木大拙がキリスト教研究者の国際会議で発したという質問があります。大拙は聴衆に向かってこう訊きました。
「聖書に、神が光あれ、と言ったら、光があった、と述べられているが、一体、誰がそれを見ていたのか?」
この問いに対して、誰一人として、答えうるものはなかったそうです。後に、大拙は弟子にこの話をして、自ら答えます。
「わしが見ていたのだ」と。
禅仏教には、西江の水を一息に飲み干す」とか「須弥山を芥子粒に閉じ込める」とか「万里を刹那に飛ぶ」とかという表現が、よく見られます。(私はまだ体験したことがないのではっきり言えませんが)これらは、どうも、ものの喩えでも言葉遊びでもなく、どうも、文字どおりの体験であるようです。時間や空間のその本来の姿を掴むことができれば、可能なのでしょう。
私のような考えかたは、一くくりに「神秘主義」とか呼ばれるわけですが(悪い言葉の響きですね)、要は、この世の中を唯物的な見方で理解しようするのは無理があると確信しており、目に見えない高次構造を通じた、より高度な理解の方法があるはずであると考えるような態度であると言ってよいのではないかと思います(例えば、二次元空間に住むフラットランド人の生活を三次元空間の人間が観察するという寓話、フラットランドの話を以前、書きました)。われわれの普通の世の中の理解は、時間や空間が私たちが知覚するような様式で存在するということを前提に出発します。時間が存在しなければ、因果関係みたいなものも存在基盤を失うので、現代の通常、科学的といわれる見方は全て否定されてしまいます。つまり、科学の前提となっているものの正当性を疑えば、科学という方法論そのものの恣意性とでもいうべきものに行き当たるということです。
ところで、このDyerの本の中で、Mark Helprinという人の書いた小説、「Winter’s tale」(ハヤカワ文庫に訳書出ています)の「Nothing is random」という章の一節が紹介されていました。「時間」についての記述に、大変、感心したので、書き留めておきたいと思います。
自然や世の中のものがいかに協調的に動いているかという例をあげて、ランダムなものは何もないと、述べた後、この著者は、こう問いかけます。
もし、ランダムなものは何もないとしたら、世の中で起こることは全て、決定論的に、前もって決まっているはずだ。それなら自由意志とは何なのか?
続けて、著者はこう結論します。
答えは単純である。前もって決まっているわけではないのだ。今、決まり、かつて、決まり、将来、決まるのである(つまり、時制と関係のない決定の仕方をするということを言いたいのだと思います)。実は、すべてのこと(過去、現在、未来の出来事)は同時に起こっているのだが、我々人間が、ありのまま全てを理解するための能力が足りないので、「時間」というものが発明されたのである。、、、宇宙は静止しており完全である。 、、、、
言語構造そのものが、時間の観念を内包するので、こうした考え方を言葉で表すのは難しいですね。言葉を使うと、どうしても誤解を生むのは避けられないようです。決定論は、宇宙の始まりの時点で、その後におこること全てが既に決まってしまっているという考え方で、それには明らかに物事の生起を、起点と時間軸に沿った因果関係によって捉えようという従来の態度が認められます。この時間軸と因果関係のワナから逃れられない限り、決定論であれ、非決定論であれ、堂々巡りの水掛け論になるだけです。それに対して、この著者は「あらかじめ」決まってしまっているのではない、宇宙が始まった時点で、同時に現在も未来も存在しているのだ、と言っています。この直感は素晴らしいです。多くの説明不能なできごとが説明できます。そして、なにより、この完全で静止した宇宙という宇宙観は我々の精神に安らぎを与えてくれると思います。
こういう考えと同様の言葉に、鈴木大拙がキリスト教研究者の国際会議で発したという質問があります。大拙は聴衆に向かってこう訊きました。
「聖書に、神が光あれ、と言ったら、光があった、と述べられているが、一体、誰がそれを見ていたのか?」
この問いに対して、誰一人として、答えうるものはなかったそうです。後に、大拙は弟子にこの話をして、自ら答えます。
「わしが見ていたのだ」と。
禅仏教には、西江の水を一息に飲み干す」とか「須弥山を芥子粒に閉じ込める」とか「万里を刹那に飛ぶ」とかという表現が、よく見られます。(私はまだ体験したことがないのではっきり言えませんが)これらは、どうも、ものの喩えでも言葉遊びでもなく、どうも、文字どおりの体験であるようです。時間や空間のその本来の姿を掴むことができれば、可能なのでしょう。