百醜千拙草

何とかやっています

ふるさとの訛り無くせしモボ足穂

2009-03-03 | 文学
先日、アメリカの音楽コンテストの様子をテレビで見ていたときのこと、一人の審査員が、ふと、観客に向かって「Y’all」と言ったので、あれ?と思いました。Y’all (You all) という呼びかけは、アメリカ南部もので、南部以外ではまず使わないと思います。それで、ああ、この人は訛りに気づかなかったけど南部の人なのだな、と思ったのでした。これは、関西人以外の人が「もうかりまっか」と言わないのと同じでしょうか。このことがきっかけになって、私は、稲垣足穂の作品に感じる妙な違和感の理由に思い当たったのでした。稲垣足穂は明石で育ち、日本のショートショートの元祖と考えられる「一千一秒物語」や「少年愛の美学」、「A感覚とV感覚」などの作者として知られていると思います。私も随分前に文庫の「一千一秒物語」を読んで、そこに現れる独特の都会の雰囲気に魅了されました。文章を一行読んだだけで、そこにすでに独特の世界が醸し出される作家というのはそう多くないと思います。私の読んだ中では、足穂と藤原審爾ぐらいではないかと思います。もう20年以上も前、藤原審爾が死んだときの新聞記事の顔写真を未だに何となく覚えているのですが、その写真と、後になって知った「藤真利子の父」というイメージがなかなか結びつきませんでした。しかし藤原審爾の小説を少し読めば、藤真利子の父というのも納得できるのです。それでこの間、急に藤原審爾の作品を読みたくなって、街で一番大きな書店にいってみたのですが、ただの一冊も見つけることはできませんでした。どうも殆どは絶版となってしまっているようです。昭和が遠くなってきた今、残していくべき作家だと思うのですが、そうもいかないのでしょうか。インターネットの世の中ですし、読みたい時にすぐ読めるように出版社が電子化して売るようにはできないだろうかと思いました。
 足穂に話を戻しますと、例えば、「星を売る店」では、神戸の街が小説の舞台となっています。そこには、大正期のガス灯が灯り、路面電車が走り、異人が行き交うエキゾティックで華やかな街の様子が描かれています。今やすっかり廃れてしまった湊川、新開地は、当時は神戸一の歓楽街で、今は無き聚楽館で外国の奇術師がショーをするというような話もでてきます。私がものごころついたころには、すでに聚楽館は駐車場になっていました。多くの舞台劇場は最初は映画館に、そしてパチンコ屋へと変わっていきました。それでも私が子供の頃の新開地近辺はまだ活気がありました。元町の大丸へは母の買い物でよく着いていきましたが、今でも覚えている、帰りの車の中から眺める神戸の山手の景色というのは、足穂の小説の雰囲気とそのまま一致するようです。その都会的で洒落た足穂の小説の舞台になっている神戸なのですが、出てくる登場人物は、なんと、神戸の住人でありながら、関西弁をしゃべらないのです!そのことに私は、先日初めて気がつきました。舞台が山本通でも新開地でも、登場人物は店の店員も含めて、関西弁を使わないどころか、むしろ東京言葉を使っているのです。どうもこれが、違和感の原因であったようです。思うに、当時、足穂は佐藤春夫の下、東京で創作活動をしていたはずで、それで神戸が舞台なのに登場人物が東京言葉という作品になったのかも知れません。もっとも足穂の作品は現実感の少ないファンタジックなものが多いので、山本通のガス灯の下を歩く登場人物が、関西弁をしゃべったのでは、雰囲気ぶちこわしになりそうです。ですので、小説としては、それはそれでよかったのだろうと思います。神戸の言葉はお世辞にも奇麗とは言えません。同じ関西弁といっても、京の女言葉だと雅もあるのでしょうが、大阪や神戸の地元の言葉をよく言ってくれる人は少ないようです。もっとも、神戸の人は、京都には好感を持っていても、大阪は嫌いというのが少なくなくて、同じ関西でも大阪とは一線を引いているような人が多いようです。自分の街をお洒落な街だと思っていたいのでしょう、お洒落な街に「もうかりまっか」ではいかんと思っているのではないでしょうか。足穂は晩年、精力的に過去の作品を校訂したり、書き直したりしたそうですが、当時は京都に住んでいたらしいので、ひょっとしたら関西弁に変更するという計画もあったのかも知れません。思うに、神戸の人はお洒落な街に住んでいると思っていながらもお洒落とは言えない関西弁を使うことに妙に抵抗があるのではないでしょうか。関西弁はその土地の誇りを失い、関西弁を使い続ける人も、関東アクセントに対する僻みみたいなものなしに、屈託なくしゃべるというわけにはいかないようです。「細雪」の時代がうらやましく感じられますね。
 と、書いたところで、本当に「細雪」の時代は良かったのかな?、と思い直しました。足穂のこれらの初期の作品は細雪よりも20年ぐらい前に出版されています。その後の20年で、小説に関西弁を使うことに対する抵抗が少なくなったのでしょうか?あるいは、東京出身の谷崎だからこそ、関西弁の小説を書くことができ、関西出身の足穂だから関西弁を作品に使うことに抵抗があったのでしょうか?
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする