百醜千拙草

何とかやっています

流れる

2009-03-20 | Weblog
昨日の夜中、ふと目が覚めて、昔のことを思い出していました。私にとって、もっとも懐かしく思い出すのは、小学校の高学年から中学生のころです。それから後は、時間が経つのが随分速くなったように感じるせいか、懐かしさが付属して思い出すことは余りないように思います。
今でも思えているのですが、小学校高学年になったある日、母が食卓のテーブルの前に私を座らせて、塾に行って勉強したいか、と聞きました。私は、深く考えもせず、何か新しいことができるのならトクだと思って、行きたいと即答しました。振り返れば、それまでの私は学校の成績など気にしたこともなく、勉強することに、別段大きな意味も感じず(とは言っても、別に嫌いというわけでもなく、学校に行くことはゴハンを食べて寝るのと同じように、日常の生活の一部と思っていたのだろうと思います)毎日、遊ぶことに夢中でしたので、そもそも、塾が何のためにあるのかさえ、分かっていませんでした。当時、田舎に住んでいたので、もっとも近い学習塾まで一時間かかりました。電車とバスで行くのですが、塾は楽しかったです。塾の名前は「XX受験研究会」という仰々しいもので、子供心にも、ここは「受験を研究するところなのか」と、研究という言葉の響きに違和感を覚えた記憶があります。その塾ではタハラ君という神戸支部トップの秀才がいて、いつも20パーセンタイルぐらいの成績だった私には、雲の上のような人でした。私よりもチビで華奢でしたが、何となく、カリスマの漂う人でした。神戸支部は最も小さかったのですが、他にも大阪、西宮にも教室があって、同学年で最もデキる人は西宮のアマミヤ君という人で、タハラ君でも、試験では常にその後塵を拝するという噂の人でした。彼らは今、どうしているのでしょうか。それにしても、昔の知り合いの名前は忘れないのに、昨日、覚えたことの半分はすぐ忘れ去ってしまうというのは悲しいですね。塾で新しい友だちができて、新しいことを覚えて、試験で競争するという活動は楽しかったです。その経験がなければ、大学へ行って、研究者を目指すというような道には進まなかったであろうと断言できます。現在の大学のあり方に、私は悲観的ではありますが、喰うために誰かに雇われて、嫌な仕事をしなくてよい、という点で、私は今の仕事(というか趣味ですね)は悪くないと思っています。そう思えば、あの食卓で、母が、子供によりよい教育を受けさせてやろう、と考えて、塾に行きたいか、と聞いてくれたことは、多分、私の人生での最大の分岐点であったのではないか、とそんなことを夜中に目が醒めて考えました。塾は遠かったので、母はしばしば、送り迎えしてくれました。その後、進んだ私立の中学も遠かったので、朝、早くから起きて、お弁当の用意を毎日してくれました。私に、それだけの労力をかけてくれたのだなあと思うと、余りにリターンが少なすぎて、ちょっと投資のかいが無かったよなあ、悪いなあ、という気持ちになりました。その私も今や、小学校高学年の子供がいます。私に似て、向学心というものが余り感じられませんが、それなりにやっています。団塊の世代ちょっと下で、日本が競争社会だった私が子供のころは、明らかに教育のレベルと就職、収入がリンクしていました。現在の不安定な社会では、必ずしもそういうわけではありませんし、学問のためではなく就職のために難しい大学に行く、というのは、もはや必ずしも賢い考え方とは言えなくなっていると思います。私は、自分のやりたいことを自覚し、その達成に向けて自発的に努力することが、大切だと思うので、勉強は大事だというのと同時に、そんなことをよく子供に言いますが、あんまり分かってくれないようです。私は大学院を卒業するまで、それこそ流れるがままにフラフラしていたので、その反省から言うわけですが、そもそも自分自身、30過ぎるまで無自覚だったのだから、子供にわかるわけはないですね。流されるままというのは良くないと思うのですが、流れるように生きるのは大事だなあ、最近、また思うようになりました。何かやりたいことを決めて、それに向けて努力すれば、必ず、抵抗にあいます。ちょっと前までは、それに負けずに頑張るのが大事だと思っていましたが、今は、そもそも、抵抗にあうような目標の設定や努力の仕方が悪いのだと思うようになりました。つまり、努力の目標を外部に設定してはいけないということですね。目標は如何に自分が満足できるか、そして、その目標に向けて流れるように近づく、そうあらねばならぬと思うようになりました。
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