百醜千拙草

何とかやっています

仏教聖典を読んで

2009-06-09 | Weblog
フレンチオープンのフェデラーの優勝は複数の点で意味深いものですが、今年は、なぜか、もうテニスについて蘊蓄する情熱が湧きません。かわりにこの前、読んだ本の感想を。

仏教伝道協会という組織が仏教を広めるために編纂した仏教聖典という小本が図書館にあったので、借りてきました。聖書やコラーンと違い、仏教には皆が手軽に使える定本みたいなものがありません。そして仏教の経典や伝本を集めると膨大な量になるので、伝道教会は、おそらく仏教における聖書のようなものを意図して、有名なものの中からところどころを抜き出して、編纂したもののようです。聖書には、人生で何か困った事があったときに聖書の中の話を参照できるように、索引がついていますが、同様の工夫がこの本になされていることから考えても、ホテルなどに聖書とならんで備えてもらうようなことを想定して作られたようです。見開き左が英訳で日本語は右ページになっています。1966年に初版のようで、なかなか面白く読めました。聖書のような定本があるのは、善し悪しとも言えます。勘違いする人は、キリスト原理主義みたいに、書いてあることを例え話と考えずに、真実であると信じ込んだりするわけですし。そもそも、文字になった時点で、既に真実ではないと言ってもよいと思います。イスラムの子供たちはコラーンを丸々暗記、暗唱するそうです。文字に書かれたものは、どうしても編集されたり、変更されたりするので、そうならないように信者が全員丸暗記し、教えを口承するのだという話を聞いたことがあります。禅仏教においては、教えは教典に書いてある事からだけからは学べない、禅の教えは文字に頼らない、ということを「教外別伝、不立文字」という言葉で明言しています。というわけで、「聖典」という小本を編むことは、功罪あるわけですが、仏教になじむという観点から、また、私のように娯楽として読むという点からは、有益なものであろうと思います。

その本の中にあるたくさんのちょっとした寓話が面白かったです。その一つ一つが考えさせられるものであったり、冗談のような話であったり、するのですが、そのうちから一つ、心に残ったものを紹介します。もう本は返してしまったので、正確ではありませんが、こんな話です。
 頭が二つある蛇がいました。一方の頭はいつも要領よく、美味しいものばかりを食べています。一方、もう一つの頭は、余り美味しいものを食べることができません。そのうち、要領の悪い方の頭は、美味しいものをいつも食べて幸せそうにしている方の頭に、妬み心をおこします。もう一方の頭に思い知らせてやろうと考えて、毒の果実を食べると、その毒が全身に回って、二つの頭とも蛇は死んでしまった、という話です。
 ここで、要領のよい頭が、なに不自由なく育った二代目のボンボンとして、もう一方の頭が、貧乏に生まれついて、安い賃金でそのボンボンに仕えている使用人であるとすると、彼ら二人が共に幸せになるにはどうすればよいか、という話へ転換可能だと思うのです。人はだれでも一つしかない地球に住む同胞であると、私は考えたいと思っています。要領の悪い頭は、きっと、「世の中は不公平だ、なんで、俺だけ、こんな目にあわねばならないのだ。金持ちに生まれついて、へらへらと楽しく世の中を渡っている奴が憎らしい」みたいなことを、思ったのでしょう。この思考において、「世の中は不公平だ」と思うのは問題ないと私は思います。その通りだと思いますから。しかし、「なんで俺だけ」というのは思い込みで、正しい認識ではないでしょうし、まして、「楽しくしている奴が憎らしい」というような気持ちを持つようになるとまずいです。この蛇の寓話では、要領の悪い頭は、普段から美味しいものも食べられず、それを不満に思い続けた挙句、妬み心を起こして、破滅します。ここでは何一ついいことはありません。一方、要領のよい頭の方は、妬まれて、結局、死にますが、少なくとも、普段から美味しいものを食べて楽しくしていたのですから、まだまし、であると思います。つまり、要領の悪い頭は、自らの不運を自ら増幅して、自ら不幸を招いてしまったということです。一方、要領のよい頭は、もう一方の頭の欲求不満を思いやることができずに、自爆テロに巻き込まれることになってしまいました。
 この話を聞く人は様々な立場で教訓を読みとることができるでしょう。「人を呪わば穴二つ」というレベルで解釈することもできますし、人間は「友愛」を持って、同胞を思いやらねばならない、と考える人もいるでしょう。
 不運な境遇を得難い学びのチャンスであると考えると、要領の悪い頭の方は、よい課題を与えてもらったのに、それを嫌な宿題だとしか考えることができずに、せっかくの機会を無駄にしてしまったとも考えられるでしょう。要領のよい方は、学びの機会を自ら探すことを怠り、与えられた幸運を自分で浪費することしかしませんでした。どちらにも悪い点があるのですが、どちらの罪が重いかと聞かれれば、教えてもらったのに学ぼうとするどころか、それを恨みにさえ思った、要領の悪い頭の方が罪が重いのではないかと私は思います。
 この本の他の部分には、「忍び耐えること」の重要性が何度も説かれています。よく忍び耐える者が、もっとも豊かな学びを手にするものであると書いてあります。耐え忍ぶ機会を与えられること自体、幸運なのだと思います。「苦しみは啓示である」とオスカーワイルドも言いましたし、「貧しい人々は幸いである」と聖書にも書いてあります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする