百醜千拙草

何とかやっています

騙される者の責任

2011-07-05 | Weblog
池田香代子ブログの数日前のエントリーの中で、伊丹万作著「戦争責任者の問題」が紹介されていました。http://blog.livedoor.jp/ikedakayoko/archives/51799647.html
戦争の責任は、一般国民にもあるのではないいかという話だと思います。一部、抜き書き。

(戦争、敗戦について)「いうまでもなく、これは無計画な癲狂戦争の必然の結果として、国民同士が相互に苦しめ合うことなしには生きて行けない状態に追い込まれてしまつたためにほかならぬのである。」

伊丹はきびしくたたみかけます。「だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。」そして極めつきは、「『だまされていた』といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう」。

この暗澹とした伊丹の予言はあたったのです。絶対安全な原発というウソで塗り固められた、経済成長という名の一本道を、私たちはむしろ意気揚々と突き進み、世界のトップに躍り出るかと思われた時期もありました。.....


私も、騙されるのは騙される方にも責任があるという意見に賛成です。騙したヤツがもちろん悪いに決まっています。しかし、騙されて、例えば、地下鉄でサリンを撒いた人間にも当然、責任があります。

国民の大多数が原発を止めろと叫んでいるのに、利権者どもが停止中の原発の再稼働を画策しています。九州電力玄海原発、政府と町長や知事が住民の意向を無視して、汚い手を使って再稼働させようとしてます。今だに収拾の目処どころか、破綻が迫っているフクシマの惨状を目の当たりにしていながら、住民の意向を無視してまで停止中の原発を動かそうとする連中は目があっても見えず、耳があっても聞こえず、頭はあっても考えら得ないのでしょう。
 原発に関しては、共産党ががんばっています。しんぶん赤旗に、原子力関連財団が、以前、原発推進のための「世論対策マニュアル」を出していたという記事があるのを知りました。http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-07-02/2011070203_01_1.html
一部抜き書き。

・繰り返し繰り返し広報が必要である。新聞記事も、読者は三日すれば忘れる。繰り返し書くことによって、刷り込み効果が出る。いいこと、大事なことほど繰り返す必要がある。
・政府が原子力を支持しているという姿勢を国民に見せることは大事だ。信頼感を国民に植え付けることの支えになる。
・不美人でも長所をほめ続ければ、美人になる。原子力はもともと美人なのだから、その美しさ、よさを嫌味なく引き立てる努力がいる。
・停電は困るが、原子力はいやだ、という虫のいいことをいっているのが、大衆であることを忘れないように。
・ドラマの中に、抵抗の少ない形で原子力を織り込んでいく。原子力関連企業で働く人間が登場するといったものでもよい。原子力をハイテクの一つとして、技術問題として取り上げてはどうか。
・原子力に好意的な文化人を常に抱えていて、何かの時にコメンテーターとしてマスコミに推薦出来るようにしておく(ロビーの設置)。
・テレビ局と科学技術庁のむすびつきは弱い。テレビディレクターに少し知恵を注入する必要がある。


原子力は美人だというのはどういう認識なのか首を捻りますね。「芸能界で原発反対すると仕事を干される」のは、政府、利権団体からの差し金でした。

それにしても、国民をバカにした態度が見え見えです。国民を洗脳して、原子力関連のハコモノをいっぱい作って天下って税金をだまし取ってやろうという官僚組織の傲慢さにみちみちています。このマニュアル、戦前のものではありません。今だに官僚組織というのは、慇懃無礼に国民を見下し、そして如何にうまく騙して税金をくすねとるかということばかりを考えているということなのでしょう。こういうマニュアルが戦後50年近くたってもあったということは、彼らにとって日本国民はずっと騙しやすいカモだったということだと思います。身を守るためには、自分の責任でものごとを知り考える技術と能力をもつ必要があります。バカにされるのは大抵、バカにされるだけの理由があるのです。

池田香代子さんは、先のエントリを下のように締めくくっています。

だけど、もうやめませんか、騙されるのは。伊丹は書いています。「現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。」この「現在」は、残念ながら2011年でもあることを認め、思い切りへこんだらそれをバネにして、これからはすこしでもましな選択を重ねていきませんか。なによりも、このていたらくにたいして責任の軽い、なのにより放射能に影響を受けやすい若い人びとや子どもたちのために。


池田さんの新訳(2002)による「夜と霧」(ドイツ強制収容所の体験記録)のあとがきの最後にこうあります。

このたびも、日本語タイトルは先行訳に敬意を表して『夜と霧』を踏襲した。これは、夜陰に乗じ、霧にまぎれて人びとがいずこともなく連れ去られ,消え去った歴史的事実を表現する言い回しだ。しかし、フランクル(著者)の思いとうらはらに、夜と霧はいまだ過去のものではない。相変わらず情報操作という「アメリカの夜」(人工的な夜を指す映画用語)が私たちの目をくらませようとしている今、私たちは目覚めていたい。夜と霧が私たちの身辺にたちこめることは拒否できるのだということを、忘れないでいたい。


情報操作を見破り、騙されず、真実を徹見するするために、人はどうするべきか、方便的に懐疑し、仮説を客観的に検討する科学的思考が必要なのだと思います。
コメント
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