日本女子サッカーの快挙、本当に感心しました。延長で一点入れられたときにはこれまでかと思いましたが、攻撃力で圧倒するアメリカに粘って、少ないチャンスをものにし、そしてPK戦を圧倒しました。やはり、要所要所で素晴らしいワザをみせた沢選手とPKでのゴーリーの人の活躍が光っていたと思います。対するアメリカでは、何と言っても最初に先制点を入れたAlex Morganがよかったです。二点目の絶妙なアシストもこの人でした。若い世代ならではの大胆でスピード感あるプレーに痺れました。
この勝利は本当に素晴らしいのですけど、またマスコミはこの話で埋め尽くして、都合の悪いニュースをかすませようするのだろう、卑しい空きカンは支持率アップに利用しようとさえするかも知れない、とイヤーな気分が涌いて来て自己嫌悪に陥ったのでした。
さてちょっと暗い話。
日本という国に住んでいる日本人は、個人レベルでみれば、諸外国に比べ、平均して、おそらく能力も高く思いやりにも満ちた人が多いだろうと思います。それは、振り返って思うに、戦後の高度成長の中で一億総中流意識が芽生え、多くの人が生き残るために他人を騙したり盗んだり疑ったりする必要がなかったという環境のせいでしょう。政府やはそんな一般日本人から税金を集め、仲間で分け合い、大企業は一般労働者を安く使ってきたわけですが、年々、生活が上向きになっていく大企業のサラリーマンなどにしたら、危険な閾に達するような社会への不満も限られていたのではないかと思います。長期に続いた55年体制がすっかり官僚政治を定着させてしまい、官の組織は日本経済が斜陽に陥ってからもその破滅的な体質を変えることはできませんでした。というか時代に沿って変ることを拒否してきました。そして、さすがに育ちのよい日本人も、騙されて来たことに気がつき始めました。
私が学生だった頃は、日本は科学技術の発達した先進国だと思っておりました。当時、アメリカの教科書では、日本人がチョンマゲ、着物姿で、みずぼらしい紙と木ででいた建物の中で、ハイテク製品を作っているマンガが紹介されているというのを知って、アメリカ人は戦争で勝ったから日本人をバカにしているのだな、と思っていました。
今になってはっきりわかるのは、ちょっと事情を知っている外国人は、日本人個人をバカにすることはなくても、日本という国家は二流だと認識してきたということです。いくらハイテク技術がすぐれていても、個人として素晴らしい人々が多くても、国という組織としての未熟さ、民主主義というものが実際には存在していないこと、総じて国民の社会意識の低さをもって、国家としては一人前とみなしてもらえていないのが実情でしょう。
そんな中で日本の色々な団体(科学研究分野も含めて)が金を使い「国際ナントカ会」みたいなものを組織して、国際社会の仲間に入れてもらおうと一生懸命やっているのをみると、正直、悲しくなります。それらの活動を通じて日本が欲していることは、外国に一人前の国として対等につきあってもらいたい、というその一点のようです。対等につきあってもらって、そして一人前の国として見てもらうことによって、何を得ようとしているのか、ほとんどの場合私にはわかりません。一人前の国としてつきあってもらえたらそれで単に満足なようです。そのために金をつぎこんでいるように見えます。言ってみれば、友人(になりたい国)の歓心を金で買っているようなもので、悪いですけど、それではバカにされる一方でしょう。日本が外国から一人前に扱ってもらいたいと思うのならば、一人前になる努力をするしかないと私は思います。
江戸時代から連綿と続く「お上」と「庶民」の構図が、いわゆる「先進国」で今だに残っているのは日本ぐらいではないでしょうか。西洋で現代社会の基礎となっている民主主義が社会に確立することになったフランス革命やアメリカ独立がおこったのは200年以上も前のことです。それに比べ、日本は今だに封建時代です。日本には人々が自らの力で権利を勝ち取ったという歴史が欠けていて、明治維新も西洋のものまね、戦後民主主義に至っては、その実はアメリカの日本人エイジェントが権力中枢に配置され、政府は昔の国民管理体制を利用してアメリカの植民地支配に加担してきました。いわば、民主主義のフリをした只のアメリカの植民地に過ぎませんでした。諸外国が日本を見る目は、アメリカの植民地の二等国、戦後65年が経った今でさえ、それは変わっていないでしょう。現実に現在も日本はアメリカの植民地です。
先週の「内田樹の研究室」(http://blog.tatsuru.com/2011/07/16_1115.php)で、若者がマルクスを読まなくなった(居心地のよい現状に満足して、社会というものを考えなくなった)ことについて、こうあります。
私に言わせれば、自己責任というのは各個人が自分に対して課すべき心得であって、立場の強いものが弱いものに向かって言うべき言葉ではありません。こういう言葉を口にせざるをなったのは、実は政府がそこまで逼迫した状況に落ち込んでいるということだと私は思います。社会意識の未熟な国民は、この政府が望んできたものです。この国の政府は、国民を守り国益を増大させるためにあるのではなく、国民から税金を巻き上げ搾取するために存在してきました。そして、その本音を隠すために、マスコミを操作し、政治家を骨抜きにし、国民は何をやっても社会は変らないというあきらめを植え付け、 3S (Sport, Sex, Screen)を駆使して、一億総白痴化(もしくは家畜化)を進めてきました。だから、日本人が未成熟な子供であるのは、政府に大きな責任があると私は思います。しかし、日本が世界から子供だとバカにされているのは間違いないことで、我々、個人にも、それを直視し、成熟への努力をする必要があることは言うまでもありません。
残念ながら日本はこれからもまだまだ降下し続けるだろうと思います。原発事故のおかげで、その底がますます見えなくなりました。そうなれば、人々は、必然的に社会のことを考えなくならざるを得なくなるでしょう。貧困や暴動を通じて、この国が55年体制以来維持して来た官、財、マスコミの癒着利権構造が揺さぶられ、そして打ち破られることになると思います。チュニジアやエジプトで起こった市民革命、そういったものが日本という国が一人前になるために必要なのかも知れません。
こんなことを考えていたら、タイミングよく、阿久根市長選で論議を巻き起こした前竹原市長のインタビューが出ていました。当時の市長選、既得権者の擁護者、マスコミは、竹下市長をあたかも悪人かのように報道していたのを思い出しますが、このインタビューを読む限り、極めて全うな意見です。(http://www.data-max.co.jp/2011/07/post_15569.html)。
一部転載。
この勝利は本当に素晴らしいのですけど、またマスコミはこの話で埋め尽くして、都合の悪いニュースをかすませようするのだろう、卑しい空きカンは支持率アップに利用しようとさえするかも知れない、とイヤーな気分が涌いて来て自己嫌悪に陥ったのでした。
さてちょっと暗い話。
日本という国に住んでいる日本人は、個人レベルでみれば、諸外国に比べ、平均して、おそらく能力も高く思いやりにも満ちた人が多いだろうと思います。それは、振り返って思うに、戦後の高度成長の中で一億総中流意識が芽生え、多くの人が生き残るために他人を騙したり盗んだり疑ったりする必要がなかったという環境のせいでしょう。政府やはそんな一般日本人から税金を集め、仲間で分け合い、大企業は一般労働者を安く使ってきたわけですが、年々、生活が上向きになっていく大企業のサラリーマンなどにしたら、危険な閾に達するような社会への不満も限られていたのではないかと思います。長期に続いた55年体制がすっかり官僚政治を定着させてしまい、官の組織は日本経済が斜陽に陥ってからもその破滅的な体質を変えることはできませんでした。というか時代に沿って変ることを拒否してきました。そして、さすがに育ちのよい日本人も、騙されて来たことに気がつき始めました。
私が学生だった頃は、日本は科学技術の発達した先進国だと思っておりました。当時、アメリカの教科書では、日本人がチョンマゲ、着物姿で、みずぼらしい紙と木ででいた建物の中で、ハイテク製品を作っているマンガが紹介されているというのを知って、アメリカ人は戦争で勝ったから日本人をバカにしているのだな、と思っていました。
今になってはっきりわかるのは、ちょっと事情を知っている外国人は、日本人個人をバカにすることはなくても、日本という国家は二流だと認識してきたということです。いくらハイテク技術がすぐれていても、個人として素晴らしい人々が多くても、国という組織としての未熟さ、民主主義というものが実際には存在していないこと、総じて国民の社会意識の低さをもって、国家としては一人前とみなしてもらえていないのが実情でしょう。
そんな中で日本の色々な団体(科学研究分野も含めて)が金を使い「国際ナントカ会」みたいなものを組織して、国際社会の仲間に入れてもらおうと一生懸命やっているのをみると、正直、悲しくなります。それらの活動を通じて日本が欲していることは、外国に一人前の国として対等につきあってもらいたい、というその一点のようです。対等につきあってもらって、そして一人前の国として見てもらうことによって、何を得ようとしているのか、ほとんどの場合私にはわかりません。一人前の国としてつきあってもらえたらそれで単に満足なようです。そのために金をつぎこんでいるように見えます。言ってみれば、友人(になりたい国)の歓心を金で買っているようなもので、悪いですけど、それではバカにされる一方でしょう。日本が外国から一人前に扱ってもらいたいと思うのならば、一人前になる努力をするしかないと私は思います。
江戸時代から連綿と続く「お上」と「庶民」の構図が、いわゆる「先進国」で今だに残っているのは日本ぐらいではないでしょうか。西洋で現代社会の基礎となっている民主主義が社会に確立することになったフランス革命やアメリカ独立がおこったのは200年以上も前のことです。それに比べ、日本は今だに封建時代です。日本には人々が自らの力で権利を勝ち取ったという歴史が欠けていて、明治維新も西洋のものまね、戦後民主主義に至っては、その実はアメリカの日本人エイジェントが権力中枢に配置され、政府は昔の国民管理体制を利用してアメリカの植民地支配に加担してきました。いわば、民主主義のフリをした只のアメリカの植民地に過ぎませんでした。諸外国が日本を見る目は、アメリカの植民地の二等国、戦後65年が経った今でさえ、それは変わっていないでしょう。現実に現在も日本はアメリカの植民地です。
先週の「内田樹の研究室」(http://blog.tatsuru.com/2011/07/16_1115.php)で、若者がマルクスを読まなくなった(居心地のよい現状に満足して、社会というものを考えなくなった)ことについて、こうあります。
そうやって日本人はマルクスを読む習慣を失い、それと同時に、成熟のための必須の階梯の一段を失いました。それから30年経ち、人間的成熟の訓練の機会を失った日本人は恥ずかしいほど未熟な国民になりました。
金があること、高い地位にあること、豪華な家に住んでいること、高い服を着ていることを端的に誇らしく思い、能力のある人間が優雅に暮らし、無能で非力な人間たちが路傍で飢えているのは自己責任なのである。能力がある人間が高い格付けを受け、無能な人間が軽んじられ、侮られるのは適切な考課の結果であり、それが社会的フェアネスなのだと広言するような人々がオピニオン・リーダーになりました。
金があること、高い地位にあること、豪華な家に住んでいること、高い服を着ていることを端的に誇らしく思い、能力のある人間が優雅に暮らし、無能で非力な人間たちが路傍で飢えているのは自己責任なのである。能力がある人間が高い格付けを受け、無能な人間が軽んじられ、侮られるのは適切な考課の結果であり、それが社会的フェアネスなのだと広言するような人々がオピニオン・リーダーになりました。
私に言わせれば、自己責任というのは各個人が自分に対して課すべき心得であって、立場の強いものが弱いものに向かって言うべき言葉ではありません。こういう言葉を口にせざるをなったのは、実は政府がそこまで逼迫した状況に落ち込んでいるということだと私は思います。社会意識の未熟な国民は、この政府が望んできたものです。この国の政府は、国民を守り国益を増大させるためにあるのではなく、国民から税金を巻き上げ搾取するために存在してきました。そして、その本音を隠すために、マスコミを操作し、政治家を骨抜きにし、国民は何をやっても社会は変らないというあきらめを植え付け、 3S (Sport, Sex, Screen)を駆使して、一億総白痴化(もしくは家畜化)を進めてきました。だから、日本人が未成熟な子供であるのは、政府に大きな責任があると私は思います。しかし、日本が世界から子供だとバカにされているのは間違いないことで、我々、個人にも、それを直視し、成熟への努力をする必要があることは言うまでもありません。
残念ながら日本はこれからもまだまだ降下し続けるだろうと思います。原発事故のおかげで、その底がますます見えなくなりました。そうなれば、人々は、必然的に社会のことを考えなくならざるを得なくなるでしょう。貧困や暴動を通じて、この国が55年体制以来維持して来た官、財、マスコミの癒着利権構造が揺さぶられ、そして打ち破られることになると思います。チュニジアやエジプトで起こった市民革命、そういったものが日本という国が一人前になるために必要なのかも知れません。
こんなことを考えていたら、タイミングよく、阿久根市長選で論議を巻き起こした前竹原市長のインタビューが出ていました。当時の市長選、既得権者の擁護者、マスコミは、竹下市長をあたかも悪人かのように報道していたのを思い出しますが、このインタビューを読む限り、極めて全うな意見です。(http://www.data-max.co.jp/2011/07/post_15569.html)。
一部転載。
身分制度が社会全体を蝕んでいます。事実上この国には三権分立はありません。立法・司法・行政に第四の権力、記者クラブ報道が結びついた四権連立で国民の自由と財産を蹂躙しています。日本は社会制度の劣等国家であり、国家の真実を知らない国民の誤解、善意、妥協、諦めで支えられているのです。
私はこの様子を大蛇に例えました。公務員大蛇は政治家を国民から組織を守るウロコにしている、政治家はピカピカ光る大蛇のウロコをするのが誇らしくて嬉しい。誰がウロコになっても大蛇がやることは変わらない。選挙はウロコを替える脱皮にすぎない。大蛇は脱皮をする度に税金を食って太るのに、犠牲になる国民がウロコに何かを期待してしまう。
国家の本体は公務員組織であり、官僚がその他公務員を兵隊とする軍隊です。この軍隊は国民に向けて銃を乱射しています。にもかかわらず国民は悪政の犯人が政治家だと思っている。
「公務員は官僚組織(全体)の奉仕者であって住民(一部)の奉仕者ではない」。戦後日本は天皇が官僚組織に変わっただけ、戦前と同じです。
<知らなければ変えられない>
景気悪化と円高の原因は、単純に通貨不足です。日本銀行はバブル時代のトラウマから金融緩和をしてこなかった。財務省は天下りを確保するための大きな政府へまい進。増税の理由が欲しくて財政赤字の拡大策をとっています。政府紙幣発行を進めようとした中川財務大臣を官僚が罠にはめるなど、官僚の悪質さは言語を絶する。彼らは大震災も増税のチャンスと心得ています。
この国は原発推進のためにでデタラメな安全神話を作り、人類史上最大の放射能汚染を拡大し続けていてこれを止められない。電力会社は役人と強く癒着している。東電幹部と担当省の官僚たちは保身第一、いまだに国民を欺き続けている。今後、爆発的に増えるであろう癌患者を考えれば戦慄します。
知れば知るほど官僚たちが確信的に国民を犠牲にしている姿が浮かび上がってきます。一方、議員たちは票のためなら何でもする。それ以外は何もしない。言ってみれば純粋強欲なバカ。
極悪官僚と票バカ政治家たちがこの国の住民を奈落の底に落としています。
「知る事からはじめよう」。これは私が会社と家庭を捨て、死ぬ覚悟で配り始めたチラシの最初のタイトルです。このひどすぎる国家の仕組み、これを国民が知らなければ転落を止めることはできません。多くの国民が現実を知ってはじめて票バカ政治家を変えて極悪役人組織を変えることができるのです。希望の持てる社会はそのあとです。
私はこの様子を大蛇に例えました。公務員大蛇は政治家を国民から組織を守るウロコにしている、政治家はピカピカ光る大蛇のウロコをするのが誇らしくて嬉しい。誰がウロコになっても大蛇がやることは変わらない。選挙はウロコを替える脱皮にすぎない。大蛇は脱皮をする度に税金を食って太るのに、犠牲になる国民がウロコに何かを期待してしまう。
国家の本体は公務員組織であり、官僚がその他公務員を兵隊とする軍隊です。この軍隊は国民に向けて銃を乱射しています。にもかかわらず国民は悪政の犯人が政治家だと思っている。
「公務員は官僚組織(全体)の奉仕者であって住民(一部)の奉仕者ではない」。戦後日本は天皇が官僚組織に変わっただけ、戦前と同じです。
<知らなければ変えられない>
景気悪化と円高の原因は、単純に通貨不足です。日本銀行はバブル時代のトラウマから金融緩和をしてこなかった。財務省は天下りを確保するための大きな政府へまい進。増税の理由が欲しくて財政赤字の拡大策をとっています。政府紙幣発行を進めようとした中川財務大臣を官僚が罠にはめるなど、官僚の悪質さは言語を絶する。彼らは大震災も増税のチャンスと心得ています。
この国は原発推進のためにでデタラメな安全神話を作り、人類史上最大の放射能汚染を拡大し続けていてこれを止められない。電力会社は役人と強く癒着している。東電幹部と担当省の官僚たちは保身第一、いまだに国民を欺き続けている。今後、爆発的に増えるであろう癌患者を考えれば戦慄します。
知れば知るほど官僚たちが確信的に国民を犠牲にしている姿が浮かび上がってきます。一方、議員たちは票のためなら何でもする。それ以外は何もしない。言ってみれば純粋強欲なバカ。
極悪官僚と票バカ政治家たちがこの国の住民を奈落の底に落としています。
「知る事からはじめよう」。これは私が会社と家庭を捨て、死ぬ覚悟で配り始めたチラシの最初のタイトルです。このひどすぎる国家の仕組み、これを国民が知らなければ転落を止めることはできません。多くの国民が現実を知ってはじめて票バカ政治家を変えて極悪役人組織を変えることができるのです。希望の持てる社会はそのあとです。