日経バイオテクONLINEのしばらく前の記事から。
「シニアの教授で業績が十分でない場合に退任してもらう」という意見が出たとのこと。どれぐらいの人がこの意見に賛成したのか、反対したのか詳細はわかりせんけど、私はこれを聞いて「姥捨て山」を思い出しました。シニアの教授で定年制なのだから、いずれ現場から去って行くことになる人です。若手を喰わせるために後数年に現場から去って行く人でも業績不振の人は辞めてもらって口減らしするということですね。これは市場原理主義、グローバル主義の延長ですね。つまり、目先の利益が最大化するようなシステムにするやり方で、管理者からすればEasyな解決法です。多分、十年、二十年、あるいは、百年というスパンで日本での研究、教育がどうあるべきかという議論は面倒くさい、ということでしょう。あるいは、本当に切羽詰まってきて若手が困っている、背に腹は変えられない、「姥捨て山」もやむを得ない、といういうのが実体なのかも知れません。
しかし、こういう時こそ、長期的視野に立って考えることが必要でしょう。私には、日本の研究環境の悪化は、明らかに「目先の利益や必要」に駆られて、拙速にシステムを変えようとしてきた過去の副作用に見えるからです。私が大学を終えるころは、医師過剰時代と呼ばれ、非常勤医師のポジションは減って行っていっていました。対して、国のやってきたことは、長期的視野に立って日本での医療をどうして行くべきかという議論があまりないまま、医師が増えすぎた、だから減らそう、そして、今度は減りすぎたから、もっと増やそう、単に目先の動きに反応しているだけに見えます。研究や教育というものも同様、長期的視野に立ってプランを立てるべきものでしょう。ひとつのプロジェクトが十年以上かかることも稀ではないのですから。私の知り合いの研究者の人も心配するぐらい寡作に人がおります。しかし、出した論文はよいクオリティーのものです。よい仕事をするには時間と労力がかかりますが、仕事を評価する側は、数と出版ジャーナルぐらいしか見ませんから、地味な主題で誠実に研究をする人はどうしても不利になります。業績を安易なメトリックスを使って、数年のスパンで評価するようなことをすると、イノベーティブな研究ほど削られ、誰もが簡単に価値がわかるような研究で見栄えのするものだけが残ることになるのではないでしょうか。
私自身、基本的にテニュアという制度そのものがない研究施設で、業績不振でグラントが取れなくなったら、店じまいして、別に喰って行く道を探さないといけないという自転車操業で日々をやり繰りしていますから、常にグラント競争の中でストレスにさらされる(ほとんどのビジネスオーナーはこの立場ですが)ことの有害さはよくわかります。業績至上主義は原発と同様、目先の利益のために長期的な安全性を犠牲にする可能性があります。例えば、高いランクのジャーナルに数多く論文を出すために、不正に手を染める研究者は増えるでしょう。そして、研究者は論文出版に有利なハデで見栄えのする研究主題に飛びつき、ブームが過ぎたら、次に乗り換える、という近視的行動をとるでしょう。そして、地味で持続性が必要な研究はなくなってしまうでしょう。
業績至上主義が働くのは、論文レビューが完全に公正であり、研究者が高い研究倫理を何があっても維持でき、実験の時間と労力のかかる研究(例えば、ほ乳類の老化研究)が研究スパンの比較的短い研究(発生生物や細胞生物、分子生物的研究)と、時間や労力を考慮して評価できる場合、でしょう。結論をいうと、そんなことは不可能です。結局、インパクトファクターとか論文数とかの数字を使うしかありません。そんなテストの点取り競争のような業績至上主義は、益よりも害の方が多いと私は思います。そもそも、研究というものが職業になったのは、この一世紀ぐらいのことで、これが将来も続く必要はないと私は個人的に思います。というか、私は日本の国としての将来にかなり不安を抱いているので、将来は研究活動は金持ちの道楽となってしまう可能性も高いと思っています。
それよりもハコモノを作っては税金を流す受け皿をつくり、結託した役人が税金を撮み食いする官僚独裁制の方を何とかしたらどうでしょうか(簡単ではないですけど)。例えば、国民背番号制が審議されていますが、これなど、典型的な税金撮み食いシステムでしょう。初期投資に2700億、運営コストが年に400億、というシステムを導入して、国民にとっては良い事は何一つといってありません。国家権力に管理されやすくなるだけです。この巨額のコストは、そのハコモノにつけるポストに天下りする官僚に喰われるだけのことです。官がより一般国民の管理をしやすくするためにシステムに国民の税金を使うというのですから、酷い話です。
話がずれました。業績不振のシニアを辞めさせる制度の話でした。雇用が保障された教授のテニュア職というものは、そもそも馬の目の前にぶら下げられたニンジンだと私は思います。テニュアを得るために若手は必死になって働き、業績を出す、そのご褒美としてニンジンが与えられる、そういうシステムだと思います。ならば、一旦、ニンジンが褒美として与えられたなら、それを取り上げるようなマネをしてはいけないのではないでしょうか。テニュアのおかげて、今度は、見栄えのする論文を出すことだけにとらわれずにじっくりやりたい研究ができる機会が与えられると考えられないでしょうか。
教育と研究がある程度リンクしたアカデミアで、業績至上主義で「ハデな論文を沢山出す競争」のコツに長けた者が支配する研究社会というものを、本当に人々は望むのでしょうか。研究格差社会ですね。大きなカネがあって見栄えのする研究室だけ残して、それ以外のところは潰すというやりかたでしょう。それが本当に研究の社会への貢献度を上げることにつながるとは思えません。
私は、シニアで業績不振の人を退任させるというシステムで若手にカネを回すのではなく、偏って多額の研究費を集中投下している「カネ持ち」から、富を再配分してやり繰りする社会主義的やり方が望ましいと思います。アメリカでもSequestrationとNIH budgetのカットで、研究環境は非常に厳しくなっていますが、それでも各NIH Institutionは一つあたりのグラント支給額を減額してでも、数を確保することを優先しようとしています。市場原理主義、格差社会の王者、アメリカでさえそうです。シニアを辞めさせてポジションやカネを若手に回すのではなく、全体として痛みを分散して引き受けるやりかたが長期的には望ましいと私は主ます。
分子生物学会年会シンポ「ガチ議論」プレ企画第1弾で会合、
文科省から2人が会合に参加
https://bio.nikkeibp.co.jp/article/news/20130517/168362/
今回の会合は5月7日は午後から日本科学未来館、夜は大江戸温泉物語と東京国際交流館で議論し、5月8日は昼過ぎまで東京国際交流館で議論しました。大学院・教育・大学院生の待遇について、(若手)研究者の育成について、任期制と定年制の問題や大学のスタッフの問題について、大学のあり方や運営の問題について、政策の意思決定の仕組みについて、研究への寄付・アウトリーチについて、研究の公正や不正について、文科省の人事制度について、などについて議論しました。 若手研究者の待遇を改善するためには、定年制のシニアの教授のうちで、研究などの業績が十分でない場合には、退任してもらうような仕組みが必要という意見も当然のことながら出てきました。
そこで研究者の業績をどのように客観的に評価するかが、重要になります。
文科省から2人が会合に参加
https://bio.nikkeibp.co.jp/article/news/20130517/168362/
今回の会合は5月7日は午後から日本科学未来館、夜は大江戸温泉物語と東京国際交流館で議論し、5月8日は昼過ぎまで東京国際交流館で議論しました。大学院・教育・大学院生の待遇について、(若手)研究者の育成について、任期制と定年制の問題や大学のスタッフの問題について、大学のあり方や運営の問題について、政策の意思決定の仕組みについて、研究への寄付・アウトリーチについて、研究の公正や不正について、文科省の人事制度について、などについて議論しました。 若手研究者の待遇を改善するためには、定年制のシニアの教授のうちで、研究などの業績が十分でない場合には、退任してもらうような仕組みが必要という意見も当然のことながら出てきました。
そこで研究者の業績をどのように客観的に評価するかが、重要になります。
「シニアの教授で業績が十分でない場合に退任してもらう」という意見が出たとのこと。どれぐらいの人がこの意見に賛成したのか、反対したのか詳細はわかりせんけど、私はこれを聞いて「姥捨て山」を思い出しました。シニアの教授で定年制なのだから、いずれ現場から去って行くことになる人です。若手を喰わせるために後数年に現場から去って行く人でも業績不振の人は辞めてもらって口減らしするということですね。これは市場原理主義、グローバル主義の延長ですね。つまり、目先の利益が最大化するようなシステムにするやり方で、管理者からすればEasyな解決法です。多分、十年、二十年、あるいは、百年というスパンで日本での研究、教育がどうあるべきかという議論は面倒くさい、ということでしょう。あるいは、本当に切羽詰まってきて若手が困っている、背に腹は変えられない、「姥捨て山」もやむを得ない、といういうのが実体なのかも知れません。
しかし、こういう時こそ、長期的視野に立って考えることが必要でしょう。私には、日本の研究環境の悪化は、明らかに「目先の利益や必要」に駆られて、拙速にシステムを変えようとしてきた過去の副作用に見えるからです。私が大学を終えるころは、医師過剰時代と呼ばれ、非常勤医師のポジションは減って行っていっていました。対して、国のやってきたことは、長期的視野に立って日本での医療をどうして行くべきかという議論があまりないまま、医師が増えすぎた、だから減らそう、そして、今度は減りすぎたから、もっと増やそう、単に目先の動きに反応しているだけに見えます。研究や教育というものも同様、長期的視野に立ってプランを立てるべきものでしょう。ひとつのプロジェクトが十年以上かかることも稀ではないのですから。私の知り合いの研究者の人も心配するぐらい寡作に人がおります。しかし、出した論文はよいクオリティーのものです。よい仕事をするには時間と労力がかかりますが、仕事を評価する側は、数と出版ジャーナルぐらいしか見ませんから、地味な主題で誠実に研究をする人はどうしても不利になります。業績を安易なメトリックスを使って、数年のスパンで評価するようなことをすると、イノベーティブな研究ほど削られ、誰もが簡単に価値がわかるような研究で見栄えのするものだけが残ることになるのではないでしょうか。
私自身、基本的にテニュアという制度そのものがない研究施設で、業績不振でグラントが取れなくなったら、店じまいして、別に喰って行く道を探さないといけないという自転車操業で日々をやり繰りしていますから、常にグラント競争の中でストレスにさらされる(ほとんどのビジネスオーナーはこの立場ですが)ことの有害さはよくわかります。業績至上主義は原発と同様、目先の利益のために長期的な安全性を犠牲にする可能性があります。例えば、高いランクのジャーナルに数多く論文を出すために、不正に手を染める研究者は増えるでしょう。そして、研究者は論文出版に有利なハデで見栄えのする研究主題に飛びつき、ブームが過ぎたら、次に乗り換える、という近視的行動をとるでしょう。そして、地味で持続性が必要な研究はなくなってしまうでしょう。
業績至上主義が働くのは、論文レビューが完全に公正であり、研究者が高い研究倫理を何があっても維持でき、実験の時間と労力のかかる研究(例えば、ほ乳類の老化研究)が研究スパンの比較的短い研究(発生生物や細胞生物、分子生物的研究)と、時間や労力を考慮して評価できる場合、でしょう。結論をいうと、そんなことは不可能です。結局、インパクトファクターとか論文数とかの数字を使うしかありません。そんなテストの点取り競争のような業績至上主義は、益よりも害の方が多いと私は思います。そもそも、研究というものが職業になったのは、この一世紀ぐらいのことで、これが将来も続く必要はないと私は個人的に思います。というか、私は日本の国としての将来にかなり不安を抱いているので、将来は研究活動は金持ちの道楽となってしまう可能性も高いと思っています。
それよりもハコモノを作っては税金を流す受け皿をつくり、結託した役人が税金を撮み食いする官僚独裁制の方を何とかしたらどうでしょうか(簡単ではないですけど)。例えば、国民背番号制が審議されていますが、これなど、典型的な税金撮み食いシステムでしょう。初期投資に2700億、運営コストが年に400億、というシステムを導入して、国民にとっては良い事は何一つといってありません。国家権力に管理されやすくなるだけです。この巨額のコストは、そのハコモノにつけるポストに天下りする官僚に喰われるだけのことです。官がより一般国民の管理をしやすくするためにシステムに国民の税金を使うというのですから、酷い話です。
話がずれました。業績不振のシニアを辞めさせる制度の話でした。雇用が保障された教授のテニュア職というものは、そもそも馬の目の前にぶら下げられたニンジンだと私は思います。テニュアを得るために若手は必死になって働き、業績を出す、そのご褒美としてニンジンが与えられる、そういうシステムだと思います。ならば、一旦、ニンジンが褒美として与えられたなら、それを取り上げるようなマネをしてはいけないのではないでしょうか。テニュアのおかげて、今度は、見栄えのする論文を出すことだけにとらわれずにじっくりやりたい研究ができる機会が与えられると考えられないでしょうか。
教育と研究がある程度リンクしたアカデミアで、業績至上主義で「ハデな論文を沢山出す競争」のコツに長けた者が支配する研究社会というものを、本当に人々は望むのでしょうか。研究格差社会ですね。大きなカネがあって見栄えのする研究室だけ残して、それ以外のところは潰すというやりかたでしょう。それが本当に研究の社会への貢献度を上げることにつながるとは思えません。
私は、シニアで業績不振の人を退任させるというシステムで若手にカネを回すのではなく、偏って多額の研究費を集中投下している「カネ持ち」から、富を再配分してやり繰りする社会主義的やり方が望ましいと思います。アメリカでもSequestrationとNIH budgetのカットで、研究環境は非常に厳しくなっていますが、それでも各NIH Institutionは一つあたりのグラント支給額を減額してでも、数を確保することを優先しようとしています。市場原理主義、格差社会の王者、アメリカでさえそうです。シニアを辞めさせてポジションやカネを若手に回すのではなく、全体として痛みを分散して引き受けるやりかたが長期的には望ましいと私は主ます。