百醜千拙草

何とかやっています

大滝さんの逝去

2013-12-31 | Weblog
大滝詠一さんの突然の死去というニュース。解離性大動脈瘤の破裂だそうで、おそらく一瞬のことだったのでしょう。
私はファンというわけではありませんが、80年代の「A long vacation」の大ヒットはよく覚えています。気持ちのいい音楽ですね。静かな夏休みを思い出します。

そのころ、対談かなにかの記事で、大滝さんが自分の曲は「パクリ」なのだ、と言っていたような記憶があって、その対談相手が、どの曲のどの部分が誰からのパクリで、、、などとと当てて、どうだと自慢したら、大滝さんはアルバムには指摘した以上の30箇所ぐらいのパクリがあるが、とてもすべてはわかるまい、と言った、というようなのを思い出しました。(曖昧な記憶ですが)
当時、音楽はオリジナルであるべきだ、と思っていて、自分の曲は「パクリ」だと言った大滝さんの言葉に正直びっくりしたものです。しかし、今、研究職をしていると、私の研究の9割り以上はパクリではないか、とも思います。というより、音楽も研究も、ずっと連綿たる先人の努力の成果の積み重ねがあってこそ、今の自分の「オリジナル」なものがあるのだ、ということが理解できるようになったということです。

つまり、30箇所をパクって、それをオリジナルにできるということは、その何百倍もの努力を、先人の仕事に対する研究と解析に積み重ねなければできないことです。当時は、単に耳障りのよいポップスにしか聞こえませんでしたが、今わかるのは、耳障りのよいポップスという作品を作り上げるためには、そこには、おそらく凄い量の基礎的研究があったに違いないということです。もし、私が研究を続けてこなかったら、大滝さんの音楽の凄さも本当はよくわからなかったであろう、と思う今日です。むしろ、自分の音楽は「パクリ」だと言った言葉に、軽蔑さえ抱いたかも知れません。

急逝された今、別にファンであったわけでもないのに、なぜか親しみを禁じ得ません。

今、「カナリア諸島にて」を聞いています。
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年末大掃除小考

2013-12-31 | Weblog
年末です。年末と言えば、大掃除です。
私の実験室のベンチも雑然としています。進行中の実験が複数並んでいて、どれもなかなか区切りがつかないのでモノがふえていきます。しかし、ヘタに掃除をしたり片付けると、しばしば、大変なことがおこるので、一段落するまでガマンしています(実験やっている人ならよくわかると思います)。同様に、机の上も80%の面積が積み上げられた書類の山で占められていて、かろうじてコーヒーカップとコンピューターのキーボードを置くスペースが残っているのみです。いよいよ、片付けて掃除しないと、仕事ができなくなりそうな雰囲気です。

掃除が大切だということは若い時にはよく分かりませんでした。掃除は嫌いでした。しかし、偉い人ほど、掃除の大切さを強調するのですね。私も、掃除がなぜ大切で、掃除する人は幸運と幸福を引き寄せるのか、はっきりと理由がよくわかりません。でも、ある種の因果関係に基づく根拠がありそうです。

掃除に関連しますが、例えば、身だしなみです。バンカラやパンクといった反社会的メッセージを表現するためにわざわざ、汚い格好や奇抜な格好をする例もありますが、総じて身だしなみは良くしておく方が悪いよりもよりも幸運を招きやすいと考えられます。仕立ての良いそこそこ上等の服を着ると、その服を汚さないように、皺をつけないようにと注意するわけですね。そうすると、自然と姿勢がよくなります。服に見合ったように、ヒゲも剃り髪も整えるし歯も磨くというものです。姿勢がよく身だしなみの良い人は好感を与えます。人が近寄ってくる。そうすると、自然と人とのつき合い方もわかってきて、いつも笑顔で穏やかな人になる。そういう人はますます人に好かれて、幸運がやってくる、という好循環をもたらすのだろう、と思います。この好循環のスイッチを入れるのが、身だしなみであり掃除だということではないか、と思います。毎日、キレイにヒゲを剃り、髪の毛を整えるのは面倒臭いです。掃除するのも面倒くさい。だからこそこういうことは習慣付けないといけませんし、身だしなみや掃除することそのものに意味を見いだす必要があります。その面倒くさい日々の義務的な行為は、単に面倒くさい日々の義務的行為だと捉えてしまうと本当に面倒くさい義務的行為となってしまって、長続きしません。

悟りの前、木を切り、水を汲む。
悟りの後、木を切り、水を汲む。


という有名な詩がありますが、結局、木を切ったり水を汲んだりすること(家事)はしないといけないことだからとイヤイヤやるのと、家事をすることそのものに何らかの意義性を見つけて行うのとでは、ちょっと違うということですね。身だしなみを良くしたり、掃除をしたりすることは、最初はイヤイヤでも、とにかくやり続けている内にわかるようになるのでしょう。経を暗ずる門前の小僧があるとき突然、目を開くように、毎日、木を切り水を汲んでいる間に、幸せと幸運はそっと忍び寄ってきて、ふと姿を現したりするのではないでしょうか。

それで思い出しました。ミュージカル、チキチキバンバンの中の「You two」という歌の中の一節に次のようなところがあります。発明家の父親が、二人の子供がいるから人生に生き甲斐があるのだ、と歌います。

Life becomes a chore, unless you're living for someone to tend to be a friend to. I have You Two!


「人生が雑用 (chore)になってしまう」というのは恐ろしい表現です。家事(雑用)は英語ではHousehold chore(s)ですが、しかし家事をしているのも人生の一部ですから、家事が単なるchoreであるなら、人生も(少なくとも部分的に)choreということになってしまいます。

かつて、「内田樹の研究室」に掃除についての秀逸なエントリーがあり、私はその一部を強く覚えております。
お掃除するシシュフォスという文の中で、多くの示唆に富む考察がなされています。「シシュフォスの岩」を絶望的に無意味な仕事に苦しむ人間の喩えだと片付けるのは容易でしょうが、それではこの神話のエッセンスを全く逃してしまうことになります。

私が休みが欲しい主たる理由は「家事をしたい」からである。
私自身の「シシュフォスの運命」にまっすぐ向きあいたいからである。
私の敬愛する兄上は先般会社をリタイアされて、晴れて“ゴールデンパラシューター”として悠々自適の日々を送っておられるが、兄の次の夢は伊豆の山中に別荘を建てることだそうである。
海を望むガラス張り広い部屋にピアノとオーディセットと書棚と寝心地のよいソファを置いて暮らすそうである。
「毎日何するの?」と私が訊いたら、兄は当たり前のことを訊くねえお前は、というように訝しげな表情をしてこう答えた。
「掃除だよ」


この兄の言葉に、人はなぜ生きるのか、という哲学命題の最も端的な解答が示されている、と私は深く感銘したのでした。
増大するエントロピーという自然法則に「掃除」という勝ち目のない戦いを挑む、死ぬとわかっている人生を生きる、それが人間が人間たる所以でしょう。人は自らがシシュフォスであるとの自覚を得たときに人間になるのかも知れません。

「家事をする」ということは「私自身のシシュフォスの運命」にまっすぐ向きあう」ということだと内田さん自身が述べておられます。その解説としてカミュの言葉を引いてあります。

身体がきしむような労役によって岩を山頂に押し上げると、岩は再びもとの場所に転がり落ちる。シシュフォスは今やり終えた仕事を最初からやり直すためにゆっくり山を下りる。
「坂を下っている、このわずかな休息のときのシシュフォスが私を惹きつける。(・・・) 重く、しかし確かな足取りで、終わりを知らない苦役に向かって山を下る男の姿が見える。息継ぎのように、そして彼の不幸と同じように確実に回帰してくるこの時間は覚醒の時間でもある。山頂を離れ、ゆっくりと神々の巣穴に向けて下ってゆくこの一瞬一瞬において、彼は彼の運命に優越している。彼は彼の岩よりも強い。


掃除をするのは、いずれ死ぬ人生を生きる人がその運命を優越するためである、と言い換えても良いかも知れません。

しばらく前には、住民至上主義のエントリーに下のような言葉がありました。

心の掃除なしに社会の掃除はない。自分の家を掃除することは気づきを与える。
「何をすればいいですか?」「どうすればいいですか?」などと聞かれたら、
先ず、自分の内を掃除してください。気持ち良くなるまで徹底的に、一番汚いところを心を込めてやってください」と言ってやれば良い。
 汚れを取ればきたないところがなくなる。この当たり前に気づいていないだけだ。


掃除の一番の効用を忘れるところでした。汚れを取ると汚いところがなくなるのです。それは、家の掃除でも、心の掃除でも同じということです。
心を美しくしたければ、掃除をしよう、ということですね。

良いお年を。
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