百醜千拙草

何とかやっています

cloud funding

2013-12-03 | Weblog
最近出版されたあなたの論文を見ました。
新しいプロジェクトの資金調達を考えていますか?

というような珍しいメッセージのメールが来ました。最初、サラ金のスパムメールかと、思ったのですが、よく見ると、とあるCloud-fundingの組織からでした。

Cloud-fundingという単語は聞いたことがあり、コンセプトも何となくわかってはいましたが、アカデミアの研究資金の調達に、そういうものがうまく行くはずがないだろうと余り関心を持たずに来ました。しかし、思春期の高校生が一分間に一度はエッチなことを考えるのと同じく、私も、そうとうな頻度で研究資金のことを考えています。運転資金のことを考えないスモールビジネスの人はいないのと同様、研究資金の工面で頭を悩ませない研究者はいないと思います。ただ、私のいるような研究施設は給料も込みでの研究資金で、それなりの金額が必要なので、比較的小額の資金を短期間で集めることを目的とするCloud-fundingはうまくマッチしません。職が安定していて、かつあるアイデアを試してみるために多少の資金が必要だ、という状況にはよいかも知れません。

いくつかあるCloud-funding platformのサイトを見ていました。こんなメールを研究者に送ってくるメリットは何なのだろう、と思ったのです。メールを送ってきた所は、よくみると、「for-profit」組織でした。つまり、この研究のためのfund raisingを助けるサービスは、金儲けの一環としてやっているのです。サービスの対価として5%ぐらいの手数料を取るということです。であれば、沢山の寄付を集めれば集めるだけ、利益が上がるというわけです。そして、沢山の寄付を集めるためには、沢山の研究者に参加してもらわねばならない、ということらしいのでした。

私、サービスに対して何らかのcompensationがあるのは当然だと思いますし、資金を集めたい研究者の人を助け、研究支援したい人を研究者に繋ぐ有意義な活動であるとは思うので、寄付金の中から運営費を出すのも当然だと思います。しかし、そのサービスによって利益を出すことを(少なくとも一つの主要な)目的としているというのは、ちょっとどうかな、と思います。それでは税金をつまみ食いするために天下り先を作る官僚と同じではないかと思います。

税金ベースのアカデミアの研究から利益を出す活動は沢山あります。研究試薬や研究機材を作っている会社、論文を出版する出版社、そういう会社から毎日、山のようにemailの広告が届きます。だから、この「for-profit]」のcloud funding platformにいちいち目くじらを立てるようなものではないのかも知れません。ただ、善意の募金と同じで、募金は、正しく有効に、その目的に沿って使われなければ、寄付してくれた人々の「善意」を悪用することになります。Cloud funding においても、同様ではないでしょうか。

官僚は、社会福祉のために、「年金制度」を作り、「消費税を増税」するというワケですが、本来、年金制度は戦争の資金を調達するため、消費税増税は官僚の天下り先のハコモノを作るカネが必要という理由でしょう。政府が国民からカネを巻き上げる時に言う建前は、基本的にすべて「ウソ」です。

Cloud fundingで、研究資金が欲しい研究者と、善意のサポーターを結びつけるためのプラットフォームを提供する、というのは建前上は、いいアイデアです。でも、どうも本音はそれを利用してカネを儲けたい、というのが主目的だということのようです。ちょっと寂しいですね。

カネの話で思い出しました。先月末に、亡くなられた経営者/作家の堤清二/辻井喬さんへの追悼の言葉が、東京新聞の「筆洗」にでていました。
東京新聞・筆洗(29日付)
本名とペンネーム。二つの名を使い分ける人は数多(あまた)いるが、その二つの名前がいずれも抜群の存在感を放つ人はまれだろう。「無印良品」などで日本の消費文化に新風を吹き込んだ経営者・堤清二。小説や詩で活躍した辻井喬▼二つ顔を持つこの人はある時、たまたま会った財界の大物に誘われ、用件も知らぬまま新聞社の幹部に会いに行く。その新聞は、米国による北ベトナム空爆を批判する社説を載せていた。財界人らは偏向報道だと非難し、圧力をかけた。「このままでは、広告出稿ができなくなる」と▼堤さんは用件も聞かずに同行した軽率さを悔やみつつ言った。「僕はあの社説は偏向しているとは思いません。北爆を続けてもアメリカは国際的に孤立するだけで、勝つことはできないと思います」▼日々、実利を追う経営者の世界と、精神性を大切にする芸術家の世界。堤さんは回顧録『叙情と闘争』(中央公論新社)で記している。この二つの世界の<音信不通と言ってもいい断絶>こそは自分が直面し続けた断絶であり、堤清二と辻井喬の分裂でもあると▼その葛藤の末たどり着いたのは、どんな世界だったのか。回顧録はこんな詩で結ばれている。<もの総(すべ)て/変りゆく/音もなく/思索せよ/旅に出よ/ただ一人/鈴あらば/鈴鳴らせ/りん凜(りん)と>▼凜とした響きを残しつつ、堤さんは人生の幕を閉じた。


このコラムはうまいですね。一人の人間の人生のエッセンスをこの短い文にまとめ、財界の新聞報道への圧力を批判し、カネ(実利)と精神の対立の問題を際立たせ、最後は故人の言葉を引いて、さりげなく読者の蒙を啓こうとしています。朝日新聞も「天声人語」などという傲慢なタイトルのプロパガンダコラムをやめて東京新聞に弟子入りでもすればどうでしょうか(いや、つい要らぬことまで言ってしまいました)。

人生を生きるわれわれにとって、カネは生活の手段の一つであって、目的ではありません。それがすっかり本末転倒してしまっているのが今の日本の戦後経済成長ばかりを目指してきた会社経営者、財界人でしょう。だから、カネのためには、偽装もするし、ウソもつく、新聞社にも圧力をかけるようになってくるのではないでしょうか。中央銀行が印刷するような紙切れのカネがなくても生きて行ける社会の実現を真剣に考え出すべき時に来ていると思います。地方通貨というやり方でも良いし、ビットコインでもいいでしょう。金本位制に戻すのも一つの手かと思います。つまり中央銀行の発行する紙切れに依存せず、経済をもっとローカルに、そして縮小していくということですね。
 資本主義という名の欲望に任せた経済活動で、人間は奴隷化され、地球環境や高度な人間らしい活動が破壊されてきました。現在の数多くの問題が経済活動を縮小すれば解決します。そうすれば、もちろん外国から物が買えなくもなるでしょうし、いざ戦争というときに費用がたりなくもなるでしょう。私は、それでもよいと思います。物が買えなくなれば、自分たちで生産すればよいことです。戦争はしない工夫はできます。それでも攻めて来られたら逃げましょう。「国破れて山河あり」の方が国栄えて放射能まみれよりましです。万が一の心配をしながらカネの奴隷となって人間性を失うのであれば、人間に生まれてきた意味がないと私は思います。あいにく、この国の支配者層、官、財、政とマスコミは、アメリカに戦争に負け、カネ至上教に折伏されてしまったので、ボトムアップの小さなコミュニティーが同時多発的にやるしかありません。民主主義を普通の人々の手で勝ち取るには、政府に嵌められている足枷をみずから外す努力が必要だと思います。
コメント
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