百醜千拙草

何とかやっています

アカデミアを去る理由

2017-08-22 | Weblog
論文の再投稿、共著者の強力なスペシウム光線が発射されましたが、それでもエディトリアルの鉄壁は突破できず、あえなく撃沈。小細工は効きませんな。結局、さすらいの旅に出ることになりました。

先日、二十年来の知り合いが電話をかけてきて、研究室を閉めると告げられました。研究室を構えて十五年、順調に教授となり、今年も複数のハイインパクト論文を出し、新規のグラントも当たったところで、外から見れば登り調子なのに、長年のアカデミアの生活を捨てて、バイオテクの開発部に転職するのだそうです。アカデミアに嫌気がさしたとのこと。

わからなくもありません。小さな分野でのアカデミアの研究というのはいわば、自慰的活動であり、論文は自己満足、研究費獲得のためにはやりたくないこともやらねばなりません。
人間が人生に意義を感じるのは、他人と喜びを共有し、他人の役に立つという経験です。アカデミアの研究者は孤独なもので、本当の仲間と言えば、一緒に研究してくれる数人です。その研究仲間の少なからずが、研究は、とりあえずの飯の種として、あるいはキャリアアップのための経験としてやっている人であり、真剣にアカデミアの研究に興味を持って将来も研究の道に進みたいと考えている人は非常に稀です。(ま、そういう人は私のような零細研究室にはきませんが)研究者として私がそういう人々にできることは、研究の面白さ、努力して何事かを成し遂げる喜び、学びの喜び、そうしたものを知ってもらうことぐらいなのに、彼らの多くはそうしたことに興味はなかったりします。そういう環境では、一生懸命努力していい作品を出版したところで、虚しさを感じることでしょう。若い人の研究ばなれは我々の世代から見ると加速しているようですが、研究者という職の不安定さ、割の合わなさを考えれば、やむを得ないのだろうと思います。

自分が長年、努力して得た技術や知識を使って、他人の役に立つことが人の生きがいであるとすると、小さな分野のアカデミアの研究者は、そうした生きがいを感じにくくなってきているのだろうと思います。また、研究も金次第ですから、貧すれば人も来ないし研究することもできず、能力を生かすこともできなければ生きがいもない、というのがアカデミアの研究者であり、私も彼女もそういう不遇の時期があり、そこで打ちのめされて、それで嫌気がさすのだと思います。私もまだ完全に立ち直れていませんが、支えてくれる共同研究者や友人のおかげて何とかやっています。不遇の時こそ、そんな人の暖かさが身にしみます。彼らの厚意に何とか答えたいというのがモチベーションの一つになっています。
コメント
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