「幸福」のメカニズムをReductionism的、物質的観点から分類すると、セロトニン的幸福、オキシトシン的幸福、ドーパミン的幸福に分けられる、という話を聞きました。なるいほど、こういう分類は実際的でいいと思いました。
もはや、私は、ドーパミン的幸福ともオキシトシン的幸福とは縁遠くなりましたが、セロトニン的幸福というのは感じることができます。そのために朝は早い目に起きて、人が少ないうちに朝日を浴びながら一駅分歩く、というのをやっております。電車を降りると、地下鉄の出口から青空が見えます。青空を見上げるとホッとするのはなぜだろう、と昔から思っていましたが、それがセロトニン的幸福なのだと言われると、納得しますね。
宗教などで感じる喜び、法悦、というのはどうなのでしょう。私は経験したことがないのでわかりませんが、例えば、三昧に入った状態というのは、喜びの状態なのであろうと想像します。宗教の実践はしていない私も、宗教音楽などに触れると宗教的幸福というのが何となく想像できるような気がします。グレゴリア聖歌とかを聞いた時に感じるものはセロトニン的幸福に近いような気がしますし、一方、声明とかゴスペルなどを聞いて感じる一体感は、オキシトシン的かなと思います。実際には多かれ少なかれ複数の幸福がブレンドされているのかも知れません。
随分前、"The Pursuit of Happyness"という映画がありました。映画の中で、このスペリングの意味は明らかには語られていませんが、一説だと、「幸福」の文字の中にある"Y"は"You"のことであり、自己の努力によって達成された幸福をさしているそうです。ならば、映画のメインテーマ的にはドーパミン的幸福の追求、そして、この映画の重要な一部である親子愛はオキシトシン的幸福ということでしょう。ならば、続編があるとしたら、セロトニン的幸福の追求がテーマになるだろうと思います。そして、「幸福」の中に、"I"も"You"もない幸福こそがセロトニン的なのではないだろうかなどと考えている次第です。