なかなか、キーになる予備データが集まらなくて、研究費申請書が書けずにいました。そう言っていても、時間はどんどん経っていき、締め切りはどんどん近づいてくるので、できる部分から書き始めました。こうなるとしばらくこれに集中しないといけないので、ストレスが溜まっていきます。
予備実験を繰り返すうちに、アレ?ということも出てきて、プロジェクトの基幹そのもが揺らぐこともあるし、そうでなくても大小の方向転換を余儀なくさせられることはしょっちゅうあります。そうなると、全体のパッケージや売り方も変えていかないとならず、折角書いたものがほとんど書き直しになったり、ひどい場合はそのままオクラになったりします。私の場合、この書き物に最低、一ヶ月、そこから推敲と周辺の書類の準備に数週間、二ヶ月弱は最低かかるので、第一稿はあと一ヶ月ほどで書けていないとまずいのですけど、二、三の重要な予備実験の結果は、早くてもあと一ヶ月半はかかると思われるし、そのデータが使い物になるかどうかも分かりません。綱渡りです。
試験勉強と同じで、書き物はそれでもやり始めは、気分がいいのですけど、同じところを何度も書き直しているうちに、だんだん鬱っぽくなってきて、最後は、ぢっと手をみて、人生の意味を問う、みたいな状況になることもあります。
ま、正しい態度は、研究費申請書など、サラサラと書き飛ばして、時間が来たらさっさと家に帰って、楽しくビールでも飲んで、明日の心配は明日に回すことでしょうね。申請書が通る通らないは、他人の評価で決まるわけですから、コチラがコントロールできない部分の方が大きいわけで。
世の中、いい加減なところといい加減でないところが微妙に混じり合っていて、その境界線も定かでなかったりします。いい加減だと思っていい加減にやっていると厳密なところに当たって痛い目に会うこともあれば、厳密にやっていると、だれもそんなことは気にしていなくて、ひとりバカを見たりもすることもあります。その見極めは簡単ではなく、やっぱり、これは運だなと思うわけです。
運も実力のうちということで、能力の高い人は、運を引き寄せるとかいいますけど、能力が高いとか、あるいは努力できる才能とかも、何ともしがたい部分があって、やっぱり運かなあ、と思います。運というよくわからないもの、われわれがコントロールできないものによって、われわれの一生は支配されている、と考えれば、これは一種の宗教ですね。この「運」教は実利的な意味があると思います。成功するのもしないのも最後は運ですから。努力して結果がでないのは運。努力しないで結果がでるのも運。努力して結果がでるのも運。ただし、努力しないで結果が出ないのは運ではなく、自然の法則。そう考えておけば、気が楽です。とりあえず、できることはやって、後は、運の神様に任せます。