百醜千拙草

何とかやっています

実験科学的産業革命

2009-10-30 | 研究
研究が捗らず、苦しんでおります。産みの苦しみであって欲しいと思いますが、前回の論文の時も、いろいろやって苦しみましたが、結局、それは論文上は何の価値も加えることはありませんでいた。研究ですから95%はハズレで5%当たればよい方だとは思っていますが、今回、同じマウスを作ったcompetitorは既に投稿したということで、当たるまでじっくりやればよい、という状況でもなさそうで、ちょっと焦っています。こういう時に焦って結果を追い求めようとしても殆どの場合、思ったようなデータがでるということはまずないということは経験で分かっているので、本当は、無欲に坦々と目の前だけをしっかり見つめてコツコツやる方がよいのでしょう。数日前、ちょっと期待していた実験もネガティブデータに終わりました。これは、休みをとって仕切り直しをせよ、との天の声ではないか、と思ったりする昨今ですけど、もちろん、「天の声にも変な声がたまにはある」という古人の警句もありますから、注意をしなければなりません。
 最近の雑誌はそこそこの所なら、殆ど必ずストーリー(メカニズム)を要求されるので、昨今は論文出版上、ストーリーを提示することは不可欠となっています。この傾向、私は好きではありませんけど、こういう縛りによって、研究者がより深く実験を進めようとする動機にもなっていますから、一概に悪いとは言えません。ただ、ストーリー中心主義みたいになってしまって、各々のデータの厳密さの評価が甘くなってしまう本末転倒がおこることもしばしばあります。研究者の方もこういった傾向を悪用して、厳密な観察結果よりもストーリーを組立てることばかりに注意を向けて「怪しい」論文を連発する人もいます。ですので、マトモな研究者であれば、どうやって本当のストーリーに辿り着くか、その辺のアタリをどうつけるか、この辺のストラテジーの立て方や決断は大変大切だと思います。ここで誤ると迷い道にくねくねとはまり込み、くねくねしている間にますます(その多分誤っているであろう)ストーリーに思い入れが深まって、別れたいけど別れられない愛憎の泥沼に入り込み、傷を深めることになります。
 ところで、先日、家の補修をするのに材木を切る必要があって、電動鋸を買ってきました。電気を入れて、ウィーン、10秒で切れます。手で切れば、5分はギコギコやらねければならなかったでしょう。こういう「パワーツール」の威力は実際使ってみると驚かされます。木材を切るということは、人間が手を使ってもできることで、私はずっと電動工具をバカにしていました。手でやるのとほとんど同じ操作を機械でやるというだけのことですし、その機械でなければできないというものではない上に、用途別にかさ高い工具を別々に揃えるというのは、馬鹿らしいと思っていました。あるいは、これは東洋と西洋の美意識の違いなのかも知れません。「できるだけ多目的なツール(手)を、技術を高めることによって、少なく使う」ことを尊び、力任せのやりかたを嫌うのが東洋の伝統なら、どんな人でもスイッチ一つでそれなりの仕事ができるようにするようが良いと思う「産業革命的思考」は西洋のやりかたなのかも知れません。そして、物質的な面での目標を達成する上で、産業革命が果たした役割を思い出すまでもなく、決まった目的を早く楽に達成するためにわざわざ開発されたパワーツールに、人間の筋肉がかなうはずもないのです。「B29を大和魂を込めた竹槍で撃ち落とす」という冗談を思い出しました。  
 研究でも、テクノロジーの進化によって、様々なパワーツールが開発されてきました。15年ほど前、DNA チップ、マイクロアレイが出た時、多くの研究者はアレイに拒否反応を示しました。仮説無しの力仕事で何かを釣って来ようという脳みそのない研究に対する軽蔑からです。しかし、そのXXでもできる実験や検査から得られる情報の(質はともかく、少なくとも)量は、一つ一つの仮説をねちねちと検討する場合と比較になりません。頭や技術を使うのは、むしろそのデータを見てからということでしょう。ここでもXXと鋏は使いよう、と言えます。パワーツールがなかった時代は、全ての実験のプロセスで非常に限定した疑問に対するYes or Noというような解答を期待する実験を積み重ねるやり方で、一つ一つ選択枝を狭めていくやり方が主でした。これは地図のない未知の土地を探索するのに似ています。そんな時、どこから始めるか、情報の乏しい中で何を選択し何を除外するか、という判断を下すのは困難で、長年の経験と洞察力に基づいた職人的「カン」が重要でした。しかし、パワーツールが使えるようになってからは、とにかく、まず力任せにデータを出して、それから考えるというやり方へと変化してきたように思います。つまり、パワーツールで目的に沿った地図をまず作成してから探索をする、そういうやりかたができるようになってきました。その情報に基づいて次の行動を決めるので、職人的「カン」への依存性は減少し、尚かつ、カンを正当化するための理屈をこねる必要も無くなってきました。現在、全ゲノムシークエンスが分かり、遺伝子発現パターンのカタログもほぼ完成した段階では、そのインフラに沿って実験方法も変化していくべきであろうと思います。これは従来の研究法との比較して、データの大量生産とデータのマスシェアリングを促進する研究界の「産業革命」と言ってもよいでしょう。ただし、産業革命がもたらした害悪も見られるようになってきました。持てるものは富み持たざる者は下位階層に釘付けになる、研究格差が拡がってきたように思います。そんな中で大多数の持たざる研究者が生き残っていくにはどうしたらよいか、というのは誰でも考えることではないかと思うのです。やはり、大量生産方式が通用しない職人的仕事を極めて、その狭い世界で地位を確立していくことであろう、という常識的な結論に落ち着くような気がします。もたざる側の私もなんとか職人的技術でしかアプローチできないようなニッチ分野を見つけたいと腐心しておりますが、そう簡単なものではないことを日々、実感しております。一方、データのマスプロダクションによって、一般研究者の生活が豊かになってきた点は否定のしようがありません。私でもUCSCのゲノムブラウザーやNCBIのサイトを開かない日はありません。これらの情報がなかったら、どれだけ日々の研究が大変かと考えたら気が遠くなるほどです。
 実験科学ですから、一のデータは百の理論に勝ります。行き詰まっている時の私の研究上のモットーは「犬も歩けば棒に当たる」です。先が読めない時は、智恵を絞るだけではなく、とにかく闇雲にでも歩き回ればマグレ当たりすることもあります。近年は、パワーツールのおかげで、研究の多くのプロセスで、頭はなくても一発で片がつく、そんな場合も増えてきました。そんなときにパワーツールに対する偏見のために、研究の真の目的の達成が阻害されるようなことがあれば、それこそ本末転倒であると思います。この辺が実験科学とパワーツールというものが存在しない他の学問、哲学とか文学とかとの違いではないでしょうか。どんな方法をとっても「正しい結論に早く辿りついた者」がエラいという単純なルールです。智恵が出ないなら汗を出せ、というのは実験科学の現場でも真実ではないかと思います。幸い、パワーツールのおかげで余り汗もかかなくはなってきています。犬も車で移動する時代になったのかも知れません。
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