石園座多久虫玉神社(いそのにますたくむしたまじんじゃ)は、近鉄南大阪線・高田市駅前(大和高田市片塩町)の神社である。駅のまん前だし、すぐ横を国道166号線が通るので、見かけた方は多いことだろう。大和高田市唯一の延喜式内社である。『奈良まほろばソムリエ検定 公式テキストブック』(山と渓谷社刊)によると、
《祭神=建玉依比古命(たけたまよりひこのみこと)、建玉依比売命(たけたまよりひめのみこと)、豊玉比古命(とよたまひこのみこと)、豊玉比売命(とよたまひめのみこと) 当社は、第三代安寧(あんねい)天皇片塩浮穴宮跡といわれる浄地に祭祀され、第十代崇神天皇の勅祭に預り、延喜の制には大社に列し、月次・新嘗の案上官幣に預った式内社である。祭神に関して『姓氏録』には「神魂命の子多久都玉命」とある。古来より竜王宮と呼び、干ばつの年には雨乞い祈願(一社相伝)が行われ、祈雨神、農耕神としても崇敬された》。戦後に改修工事が行われるまでは、高田川が神社のすぐ西側を流れていたので、水神的な要素が強いようだ。
境内には、保育園があった
社殿は平成2年、放火によって全焼し、その後再建された
『古事記』安寧天皇の条に「片塩(かたしお)の浮穴(うきあな)の宮に坐して、天の下治めたまひき」、『日本書紀』には「都を片塩に遷す。是を浮孔宮と謂ふ」とある。境内の案内板(大和高田市教育委員会)には「石園坐多久蟲玉神社は、大和高田市唯一の延喜式内社。祭神は建玉依彦命、建玉依姫命の二坐を祀る。本社が安寧天皇片塩浮孔宮跡と伝承されるのは、近くの三倉堂池から発掘された土器・木棺・埴輪・七鈴鏡(ひちれいきょう)などにより、弥生時代に続く古代農耕の開拓神として、宮跡と神社の結びつきが考えられる。 この神社は、古くから龍王宮と称えられ近郷の信仰が厚い」とある。
また別の境内案内板には《静御前ゆかりの地~石園坐多久蟲玉神社(龍王宮) 石園坐多久蟲玉神社 (龍王宮) は、延喜式神名帳に式内社「石園坐多久豆玉神社」と記されています。かつてこのあたり一帯が礒野領でした。これより600mほど西に行くと、静御前の母礒野禅尼の故郷である礒野村(現在大和高田市礒野町)です。白拍子となった静御前は、源義経に見初められ、やがて源頼朝に追われる身となります。捕らわれ鎌倉に送られた静御前は、頼朝の妻政子の情けにより京に帰ることができますが、心疲れて病気になり、母の故郷である大和高田市礒野に帰ってきます。静御前自ら病気平癒を祈った「笠神の杜」の明神さんは、現在この境内に移され祀られています。 短い生涯を終えた静御前の墓は、塚跡として礒野に残っています》。
清楚なガクアジサイが咲いていた
この神社で行われる御田植祭(おたうえさい)のことが、ブログ「奈良の風景と無形民俗文化財」に載っていた(本年4月8日)。《御田植祭というと山村の集落や田園地区というイメージがありますが、商業の町で知られる大和高田市でも行われます。その神社名は石園座多久虫玉神社で、地元では龍王宮として崇拝される神社です》《御田植の祭典は午前11時から拝殿の中で執り行われ、祝詞奏上や献撰などほぼ他の神社と同様に行われます》《あまり有名でないのか、カメラマンは私ともう一人だけ。それと地元の方と思しきビデオを撮影されていた方だけでした。また、祭典の終わりに良くある、御供まきがないからか、地元の参拝者もありませんでした。撮影の方は、そんなことでゆっくり好きな場所から撮影出来ます》。
駅前なので、近辺に出かけた折の途中下車して、気軽にお参りできる神社である。ぜひいちど、ご参拝いただきたい。
《祭神=建玉依比古命(たけたまよりひこのみこと)、建玉依比売命(たけたまよりひめのみこと)、豊玉比古命(とよたまひこのみこと)、豊玉比売命(とよたまひめのみこと) 当社は、第三代安寧(あんねい)天皇片塩浮穴宮跡といわれる浄地に祭祀され、第十代崇神天皇の勅祭に預り、延喜の制には大社に列し、月次・新嘗の案上官幣に預った式内社である。祭神に関して『姓氏録』には「神魂命の子多久都玉命」とある。古来より竜王宮と呼び、干ばつの年には雨乞い祈願(一社相伝)が行われ、祈雨神、農耕神としても崇敬された》。戦後に改修工事が行われるまでは、高田川が神社のすぐ西側を流れていたので、水神的な要素が強いようだ。
境内には、保育園があった
社殿は平成2年、放火によって全焼し、その後再建された
『古事記』安寧天皇の条に「片塩(かたしお)の浮穴(うきあな)の宮に坐して、天の下治めたまひき」、『日本書紀』には「都を片塩に遷す。是を浮孔宮と謂ふ」とある。境内の案内板(大和高田市教育委員会)には「石園坐多久蟲玉神社は、大和高田市唯一の延喜式内社。祭神は建玉依彦命、建玉依姫命の二坐を祀る。本社が安寧天皇片塩浮孔宮跡と伝承されるのは、近くの三倉堂池から発掘された土器・木棺・埴輪・七鈴鏡(ひちれいきょう)などにより、弥生時代に続く古代農耕の開拓神として、宮跡と神社の結びつきが考えられる。 この神社は、古くから龍王宮と称えられ近郷の信仰が厚い」とある。
また別の境内案内板には《静御前ゆかりの地~石園坐多久蟲玉神社(龍王宮) 石園坐多久蟲玉神社 (龍王宮) は、延喜式神名帳に式内社「石園坐多久豆玉神社」と記されています。かつてこのあたり一帯が礒野領でした。これより600mほど西に行くと、静御前の母礒野禅尼の故郷である礒野村(現在大和高田市礒野町)です。白拍子となった静御前は、源義経に見初められ、やがて源頼朝に追われる身となります。捕らわれ鎌倉に送られた静御前は、頼朝の妻政子の情けにより京に帰ることができますが、心疲れて病気になり、母の故郷である大和高田市礒野に帰ってきます。静御前自ら病気平癒を祈った「笠神の杜」の明神さんは、現在この境内に移され祀られています。 短い生涯を終えた静御前の墓は、塚跡として礒野に残っています》。
清楚なガクアジサイが咲いていた
この神社で行われる御田植祭(おたうえさい)のことが、ブログ「奈良の風景と無形民俗文化財」に載っていた(本年4月8日)。《御田植祭というと山村の集落や田園地区というイメージがありますが、商業の町で知られる大和高田市でも行われます。その神社名は石園座多久虫玉神社で、地元では龍王宮として崇拝される神社です》《御田植の祭典は午前11時から拝殿の中で執り行われ、祝詞奏上や献撰などほぼ他の神社と同様に行われます》《あまり有名でないのか、カメラマンは私ともう一人だけ。それと地元の方と思しきビデオを撮影されていた方だけでした。また、祭典の終わりに良くある、御供まきがないからか、地元の参拝者もありませんでした。撮影の方は、そんなことでゆっくり好きな場所から撮影出来ます》。
駅前なので、近辺に出かけた折の途中下車して、気軽にお参りできる神社である。ぜひいちど、ご参拝いただきたい。