和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

備蓄と民間防衛と経文。

2024-05-23 | 地域
曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社・2011年9月10日発行)。
そのなかに「スイスの『民間防衛』に学ぶ」(p107~)という箇所。
すこし引用してみることに。

「・・第2の理由として、私の頭の中のどこかには常に毎日の生活が
 崩れる日に備えて、幾ばくかの備蓄をするということは国民の義務
 だという観念があった。

 それを私に教えてくれたのは、スイス連邦法務警察省発行の
 『 民間防衛 』という本であった。・・・
 
 16歳以上の国民には、この『民間防衛』なる小冊子が配られる
 と聞いていた。今、私の手元にあるのは、1974年7月に原書房
 から発行された第2刷である。・・  」(p108)

そして、すこしあとに、こんな箇所がありました。

「 備品の中に聖書があるというのもスイスらしい。
  日本だったらもちろんお経文を持ち込む人もいるだろう。」(p 113 )


今回は、この『お経文』という箇所が気になりました。
私事。5月20日21日と葬儀に親族としておりました。
日蓮宗の坊さんに通夜と本葬と、
『妙法蓮華経』のお経本の読経をしていただき。
二日にわたって、その読経について声を出しておりました。

  開経偈(かいきょうげ)からはじまり
  妙本蓮華経。方便品。第二 とつづき
  欲令衆(よくりゃうしゅ)は、漢字と平仮名でした。

まだ、読経はつづくのですが、ここには
欲令衆にふれることに。

通夜では、「欲令衆」の一部を全員で読経し
本葬では、「欲令衆」の全文をお坊さんが、立ち一人で読経されておりました。

その通夜での一部読経された「欲令衆」の箇所を、ここに引用しておきます。

「  三界(さんがい)は安き事無し。
   猶(なお)火宅(かたく)の如し。

   衆苦充満(しゅうくじゅうまん)して甚だ怖畏(ふゐ)すべし。
   常に生老病死(しょうろうびょうし)の憂患(うげん)あり。

   是(かく)の如き等(ら)の火、熾然(しねん)として息(やま)ず。
   如来(にょらい)は已(すで)に三界(さんがい)の火宅を離れて、
   寂然として閑居(げんこ)し、林野(りんや)に安處(あんじょ)せり。 

   今此三界(いまこのさんがい)は、皆是れ我有(わがう)なり。
   其中の衆生(しゅじょう)は、悉(ことごと)く是れ吾子(わがこ)なり。
   而(しか)も今此處は、諸(もろもろ)の患難多(げんなんおほ)し、
   唯我一人(ただわれいちにん)のみ能く救護(くご)をなす。  」


はい。「欲令衆」の三分の一ほどを、通夜の席で読経しました。
「欲令衆」の文は漢字と平仮名まじり、私にも理解しやすい。 
はい。それに、漢字にはきとんとフリガナがありありがたい。


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アンケート。

2024-02-05 | 地域
水曜日は、私が自由に使える日。
公民館の推進委員の方がみえて、講師をしませんかと話された
のがキッカケで去年までに3回お話をさせていただきました。
はい。いずれも、一年一回。水曜日に限りました。
はい。歩いたり。歌ったり。お話したり。

参加人数はいたって少なく、私もあがることもなくお話ができます。
たとえば前回は高校の教室をかりて、創立期におきた関東大震災の
『復興の歌』に、新しい曲をつけてもらい参加者全員で歌いました。

その時のテーマは『関東大震災と「復興の歌」』としました。
当日の参加は14名。終わって、アンケートに記入されたのは
そのうちの10名。はい。平日であり、ほとんどが70歳以上。
うん。たいていの60歳代は仕事をもっていて、平日は無理。

お見かけすると、ほとんどが、私より年上に見えました。
参加者は、女性8人・男性6人。「公民館だより」が参加の情報源。

アンケートに「 どのようなテーマの講座に興味がありますか 」
という項目がありました。『郷土歴史』への興味が10名おります。

さて。『 企画してほしい講座等を具体的に 』という質問に
私に気になる回答がありました。それはこうです。

「 関東大震災の内容をくわしく講習してほしい。
  地域の受災状況をくわしく知りたかった。  」

その回の講座の題を「関東大震災と・・」としてあったので、
てっきり地域の関東大震災の際の状況を教えてくれる講座だと
思って参加されたのだろうなあと想像しました。
その方に、私は肩すかしをしてしまったのかもしれない。

そうして、アンケートの回答を見ているうちに
今年の講習のテーマが浮かび上がってきました。

とりあえず。今年の講座に仮題をつけておきます。
『 安房郡の関東大震災 ・・ 郡長大橋高四郎 』

できるだけ、安房地域の地名を登場させながら、
地図を開き、震災や登場人物の推移を図上再現。
というのが、いま思い浮かべているところです。

はい。講座としては、ほんの1時間ほどで終わるでしょうが、
こうして、それについてのあれこれを思い描く時間は楽しい。

今年は、当ブログであれこれと思い描く時間を記録してゆきます。






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『秋刀魚の味』と母親。

2023-12-31 | 地域
今年最後の日に思い浮かんだのは、
小津安二郎と母親とのことでした。

『秋刀魚の味』が封切られた昭和37年は、
小津安二郎が59歳。この年の2月4日母親死去。

2月5日 早朝帰宅。亡母86歳、喜屋妙見大姉。通夜。
2月7日 浄智寺にて告別式
2月10日 初七日。深川陽岳寺で読経、埋葬。
5月14日 亡母百ヵ日。
5月15日 シナリオ、人物の配置など大凡の見当をつける。
5月21日 亡母の夢をみる。
5月24日 シナリオ構成のカードを並べる。
6月8日 脚本依然難渋。
6月25日 『秋刀魚の味』脚本完成。
8月30日 「小料理屋・若松」のセットより撮影開始。
11月18日 『秋刀魚の味』封切。

12月2日 弟妹と共に、亡母の遺骨を高野山に納める旅行。

( 以上は、p680~685 蛮友社「小津安二郎 人と仕事」 )

この本のはじめに野田高梧『交遊四十年』という文がありました。
そこに母親と小津安二郎を語った箇所がありました。引用。

「小津君が北鎌倉に居を定めることになったのそのころのことで、
 僕も一緒にその家を見にいったのがだ、ひと目で気に入り、
 僕も賛成だった。そのころお母さんは妹さんや弟さんの
 いられる千葉県の野田に疎開したままでいられたのだが、
 それからは北鎌倉に、小津君と二人で住まわれることになった。

 理想的な、と言っていいほどのいいお母さんで、
 小津君は或る意味でのテレ屋だったから、

 僕等の前ではわざとお母さんをぞんざいに扱っているような顔をして、
『 ばばァは僕が飼育してるんですよ 』などと口では言っていても、
 芯は本当に親思いのいい息子だった。

 一緒に銀座へ出ると、殆ど必ずと言ってもいいほど
 小津君はお母さんに手土産を買って帰った。

『 まァまァ野田さん、折角来ていただいたのに、
  今日もまたあいにく安二郎の家内が留守でござんしてね、
  どうぞまァこんな婆さんで勘弁して下さいね 』

 そんな冗談がこだわりなくスラスラと出るお母さんだった。 」(p12)


さてっと、ここまで紹介したら、テレ屋の小津安二郎の
ゾンザイ言葉を引用してみたくなります。
それは色紙へと書かれたもののようです。

    『 高野行 』

  ばばあの骨を
  捨てばやと高野の山に
  来て見れば 折からちらちら風花が
  杉の並木のてつぺんの 青い空から降つてくる

  ・・・・・・・・
  ・・・・・・・・

  石童丸ぢやないけれど
  あはれはかない世のつねの うたかたに似た人の身を
  うわのうつつに感じつつ 今夜の宿の京四条
  顔見世月の鯛かぶら 早く食ひたや呑みたやと
  長居は無用そそくさと 高野の山を下りけり

  ちらほら灯る僧院の 夕闇せまる須弥壇に
  置いてけぼりの小さい壺 ばばあの骨も寒かろう




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どの町場でも村々でも。

2023-11-07 | 地域
小沢信男著「裸の大将一代記」(筑摩書房・2000年)の最初の方を読む。

吃りながら雄弁に、山下清が田舎にいって口上を述べる
その口上の箇所も(p51)、何だか寅さんが思い浮かんできました。

それはそうと、小沢氏の文が冴える箇所。

「かの≪白痴の天才≫清少年と、
 この馬橋や我孫子の商家の人々が見た山下清とは、
 おのずから別人のようだ。

 貼り絵の天才少年への有識者たちの驚きには、
 あんな白痴が、という前提が確固としてあるわけだろう。

 一方、人並み以下とこきおろしながら魚屋にせよ弁当屋も、
 それなりにこの世に生きて働いて、やがては
 所帯を持つだろうことを、むしろ当然の前提としている。

 どうやら世間が、二重構造になっていたのだろう。
 すくなくも昭和のこの時期あたりまでは。・・・
 この国には精神薄弱児教護の施設もなく、その構想さえも欠けていた。

 反面、ジモジモでは、落語の『鮑(あわび)のし』がいい例で、
 なりたい職人もしっかりしたかみさんさえあてがえば世渡りができた。
 どの町場でも村々でも。

 そのシモジモの余裕が、近代産業社会化に揺さぶられ、
 現代情報社会に均(なら)されて、
 のっぺらぼうに酷薄な世間となってゆく。

 その端境期のあたりを縫うように遍歴した、山下清は、
 いわば最後の証言者かもしれない。   」(p71~72)


うん。思い浮かぶのは、松田哲夫さんが、小沢信男さんを評して

「 小沢さんとつきあうようになってわかったのだが、
  この人は視点がいい、文章がいい・・・・     」
              (p156 松田哲夫著「縁もたけなわ」)

うん。山下清の足跡を丁寧にたどってゆくのですが、
ときどき、ハッとする視点と出会えるのでした。
といっても、まだ100ページも読んでいないのですけれど。
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皮肉なようで親切、平凡なようで深遠

2023-10-22 | 地域
徒然草第39段の解説で興味を惹かれたのは、
安良岡康作(やすらおか・こうさく)著「徒然草全注釈上巻」(角川書店)でした。その説明の最後に、西尾實著「作品研究つれづれ草」(学生社・1955年)からの引用があって、それならばと、西尾實氏のこの本をひらいてみる。

はい。安良岡氏が引用していた箇所がありました。
徒然草第39段を、西尾氏は3つに分けて説明をしておりました。引用。

「①では、ある人の問と上人の答とを具え、
     それに対する著者の感歎語を加えているのに、
 ②と③とでは、上人の答と著者の感歎語だけを掲げて、
     問の言葉を省略して、結構の緊縮を計っている。・・」

「 『 念仏の時、睡におかされ行をおこたり侍る事、
    いかがして此のさはりをやめ侍らん 』

  問者にとっては、問になっている問のつもりであることが、
  調子に出ていて興味が深い。そして、それがまた、だれでも
  自分の場合は気づかない、人間通有な弱点であることが注目せられる。

  『 目のさめたらんほど念仏し給へ 』

  問によって生じた人間共通の弱点を、
  簡勁な一語で衝いて餘すところがない。

  人間というものは、可能なところを捨てていて、
  しかも不可能なところばかりを数えていたがるものだから。

  皮肉なようで親切、平凡なようで深遠な答語である。  」(p196~197)


この徒然草第39段は、たとえば、岩波文庫では行をわけて原文が
6行です。短い箇所なのですが、さらにそれを三等分して西尾氏は
説明しており、その最初の①を、ここに引用してみました。

この第39段の法然上人が登場する箇所を、西尾氏は別のページで
吉田兼好が、わずかな行で上人を取り上げたことへと言及されておりました。

「・・およそ、すぐれた人間を、その人間らしい言葉において
 生かし得る作者(兼好)は、非凡な作者である。

 一人の人物について、その思想を把え、
 行動を叙することはさして難事ではない。

 けれども、その人の言葉をもってただちに
 その人物を描出することは、至難である。

 この意味において、法然上人ほどの人物を、
 わずかに三つのこの短章によって浮き彫りにし得た著者は、
 まさに、作家としての自在境に入ったものであるといわねばならぬ。」(p221)

はじめてひらいた西尾氏のこの本なのですが、
パラパラ読みらくし、ここでは、本文の最後を引用しておくことに。

「・・・そういう仏教的教養や王朝文化主義をかなぐり捨て、
 彼自身の本音を吐露しないではおかない人間兼好の真実さを示している。

 彼の中世的人間像の創造や中世的様式美の発掘は、
 むしろ、彼の教養や尚古主義をかなぐり捨て、
 自由人らしい人間兼好の本音を傾けているところにおいて、
 形成されているというべきではないだろうか。

 武家北條時頼への人間的同感(215)、
 新興仏教家としての法然に対する讃仰(39)など、

 新しい時代に対する、また、革命的な原理に対する、
 衷心からの承認がある。彼の反時代的性格は、
 
 それが頽廃に陥っている古代貴族である公家階級に
 向けられたものであっただけに、それの否定的勢力として登場した、
 新興貴族である武家の革命的文化は、解放された人間兼好の本音に
 つながる可能性をもつものであったにちがいない。

 ここに、つれづれ草に示された兼好の
 人間像が認められ、作家像が見出されるのではないだろうか。」(p262)


はい。パラパラ読みですが、読めてよかった。
まるで、ジグソーパズルの途方に暮れるような煩雑なピースが、
確実に組み合わさってゆくようで西尾實氏の本読めてよかった。

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山車引き回し

2023-10-10 | 地域
10月8日(日曜日)に地区の山車引き回しがありました。
小雨の中を、コロナ禍以来の祭りとなりましたが、
こんなに子供たちがいるのかと思えるほどの人数があつまりました。
おそらく、連休で実家をはなれている方々も参加されていたのでしょうね。
ちっとも、顔をみてもわかりません。

地元の小学校・中学校が統合して、他地域へ移ってしまったので、
まるで地域小学校の運動会が復活したような気分を味わえました。

ということで、昨日9日は、あとかたずけ。
万端縮小しての開催でしたが、役員さんのおかげで楽しい祭りとなりました。
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校門を出ても。

2023-08-02 | 地域
中田喜直へのクエスチョン。

『子供の歌を作るとき、どんな考えで作られますか?』
と中田はよく聞かされた。
そんなとき、中田は必ず
『 子供のことを考えないで作ります 』と答えていた。
要するに
『 子供や大衆に媚びたら駄目で、
  他人のことはあまり考えず、
  自分の考えを率直に表現するのが一番大切 』だということだ。

伴奏についても、中田は、
『 私は童謡を沢山作っているが、
  メロディーより伴奏のほうに力を入れ、
  時間をかけて作ることが多い。

  幼稚園の先生でも弾けるようにやさしく、
  などと考えたことはない。いつもその詩に一番ふさわしい
  音楽であることだけを考えて作曲してきた 』
 
  ・・・・・・・・

『 小学校の音楽教科書のために、拍子、調、音域など、
  子供にも先生にもやさしくという、いろいろな配慮、
  制限などがつけられて作られた曲がある。

  私も何曲か頼まれて作曲したが、
  このような作品の中では、いい曲がほとんどない。

  子供が歌いやすく、分かりやすいように、という親切心があっても、
  作曲家の心を縛ってしまうから駄目なのである』

これも中田の言葉だが、実に的を射た指摘である。
逆に言えば、子どもに媚びない名詩を得て、
自分の考えだけを大事にして作曲する作曲家には、
教科書に出番はあまりないことになる。・・・・  」

( p115~117  牛山剛著「夏がくれば思い出す」新潮社 )

( 『 』内の中田氏の言葉は、
  サンケイ新聞昭和57年5月31日付「五線譜にのせて」より )


はい。牛山剛著「夏がくれば思い出す 評伝中田喜直」。
この本は、あれこれと、あとになって思い出しそうな箇所が
あるのでした。はい。今年の夏の収穫。

この文のなかほどにも、
『 ほんとうに魅力ある歌だったら、
  子どもたちは校門を出ても喜んで唱うだろう。 』(p117)

という箇所がありました。はい。
70歳でも。80歳でも。90歳でも。
100歳でも『喜んで唱うだろう』。

昨日のコメントを頂戴し、そんなことが、思い浮かびました。
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『 泣き虫雲のあめまるくん 』

2023-04-05 | 地域
柳田国男著「涕泣史談」
河合隼雄著「泣き虫ハァちゃん」

2冊を並べてたら、ちょうど近くの画廊MOMOで絵本の原画展があった。
画廊といっても、週に3~4回。それも展覧会がある時にひらくお店です。

絵本は「泣き虫雲のあめまるくん」文・絵なっちょろ。2022年7月発行。
その色鉛筆の原画展でした。私が知ったのは、地方新聞の記事でした。
こうありました。

「・・富浦地区の堀川七摘さん(28)が出版した絵本・・
   原画展・・色鉛筆やパステルで描いた原画22点が並ぶ・・

   絵本は、泣き虫で多くの雨を降らせる嫌われ者のあめまるくんが、
   友人の助言で旅に出て、枯れた花や作物を元気にさせるなど、
   多くの人に感謝されるストーリー。

   ワーキングホリデーでオーストラリア、
   バックパッカーでアメリカなど海外を
   旅した経験のある堀川さん。2019年ごろに、
   あめまるくんのストーリーを思いつき、約4年かけて制作。
   ・・・現在は、地元で塾を経営する・・・         」


はい。ちょっとはじめの方を引用させていただきます。
引用は、友達のぴよちゃんが登場する前です。

「・・・あめまるくんは泣くことを止められません。

 そんなあめまるくんに、地上の人たちはこんな風に言うのでした。

 『 あめまるくん! 泣いていたら外で遊べないよ! 』
 『 あめまるくん! これじゃ布団や洗濯物が干せないわ 』
 『 あめまるくん! 明日は楽しみの遠足なんだから泣き止んでよ! 』

  みんなが一斉にあめまるくんを責めました。
  すると耐えきれなくなったあめまるくんは・・・・


この絵本の特色は絵もそうなのですが、
もうひとつあります。活字の下に英文。
うん。このページの英文も引用します。

  The people  down on earth spoke to Rainn like this.

       "Rainn! Ican't play outside because you're crying!"
       "Rainn!  I  can't air my laundry and bedding because of you!"
  "Rainn!! I have a special school trip tomorrow so please stop crying!"

      Everyone complained to Rainn at once.
      And then, he just couldn't take it any longer.

 
はい。毎ページの絵は、これはひらいてのお楽しみ。
興味のある方は、新刊がネット上で買えるのでした。


      

 
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お汲みなさいと、玉のごとき水を。

2023-03-09 | 地域
詩は、分かったようで分からないところがありますよね。
わからないようで、いつか分かったりするかも知れない。

すぐ飽きっぽい私ですから、詩を読んでいても、
すぐ興味が他にうつります。けれども不思議に、
またその詩人を読んでみたいと思うこともある。

そんなときのために、安い古本で詩集があると、
まあ、とりあえず、買っておくことがあります。

こうして『井上靖全詩集』(新潮社・昭和54年)を買いました。
古本函入り400円。ありがたいことに月報のような冊子つきです。

この『井上靖全詩集』は、昭和58年に新潮文庫に入っています。
うん。詩集には文庫がよく似合う。手軽で、惜しげなく読める。
私がぐうぜん安く買えた、函入り全詩集は昭和55年二刷でした。

はい。函入り詩集に、はさまっていた冊子に4名の方々が書いて
おりました。その二番目に竹中郁の文がありました。
のちに新潮文庫になった『井上靖全詩集』には、
残念ながら、この冊子の文までは載っていない。

はい。400円分の引用をさせていただきます。
竹中郁『詩の塔』と題して文のはじまりも印象的です。

「井上靖さんが関西の水に馴れ親しんだ年月は、相当ながい。
 しかも、若い頃だった。吸収力の旺んな年ごろだった。

 井上さんの骨太な歴史小説、たとえば『天平の甍』とか
 『風濤』とかからは、伊豆山脈を朝夕みつづけてきた人の息吹をかんじる。

 それと呼応して書かれたかのように、その詩をみると、
 これは関西の水に浸ったからだと思えるふしがある。

 繊細な感情の揺れをさりげない抑揚のうちにすらりと出してみせてある。
 読者に向って、お汲みなさい、お汲みなさいと、玉のごとき水を向けてある。
 これは京阪の文化風土が古くから持ちつづけているテンペラメントだ。 」


はい。こうはじまっているのですが、
私には『京阪の文化風土が古くから持ちつづけている』という
テンペラメントからしてもう分からなくなる。
それは京阪の人たちにごく普通のことなのかなあ、と思ったり。

うん。このあとに『きりん』の話になったりするのですが、
エイヤア。ばっさりカットして、竹中さんの短文の最後の方
雑誌『きりん』への言及がふたたび出てきます。

「・・どうしても忘れられないのだ。わたくしと会うたびに、
 白石欣也や宗次恭子はどうしたでしょうねと、かれらの純粋無垢の貴さ、
 美しさにうたれた三十年前を呼び出すように問いかけられる。

 三十数年前の経験がよほど気に入っているのだ。
 この子供だった二人だけではなく、ほかにも心に喰い入った 
 小詩人たちはみな成人して、井上文学を読んでいるにちがいないが、
 このような関係は何と呼べばいいのだろう。・・・        」


はい。やはり全文を引用しなくちゃいけないと思いながら。
ここまで(笑)。そう400円分はここまで。

ほかにも書きたいことがあるけれど、
それは、次回のブログにいたします。
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『諏訪のジャジャ馬』の息子。

2023-02-17 | 地域
大村はまの年譜には

昭和3(1928)年 3月 東京女子大学卒業
         8月 長野県諏訪高等女学校に赴任
昭和13(1938)年  府立第八高等女学校に転任

とあります。大学を卒業して赴任した諏訪という場所が
どういうところだったのかを藤原正彦氏が書いています。

「 大村はま先生は十年間、諏訪高女で教えられた。

  信州というのは特殊な地域である。
  田毎(たごと)の月にちなんで田毎の学者と言われる。
  
  人々は理屈っぽい。風呂たきおばさんが文芸春秋を読んでいた、
  などとよく言われる。教育にも熱心で、
  我が国最初の開智学校以来、信濃教育として名を馳せてきた。

  諏訪は信州の中でももっとも信州らしい所で、
  長所短所がここでは増幅されている。

  短所の一つであろう、諏訪人は誰彼かまわず、
  ぞんざいな言葉で単刀直入に斬り込む癖がある。

  ・・・信州の教育界では、
  諏訪で四年間勤めれば一人前になる、
  とよく言われたものである。

  ・・・諏訪の旧制中学校や女学校の教師陣は、
  今も語り継がれるほどの多士済々だった。・・

  私の母のような鼻っ柱が強くて生意気な者が多かったはずである。
  野武士とジャジャ馬の群の真っ只中に舞い降りた・・女教師  」

   ( p323 藤原正彦「我が家の文運」・大村はま白寿記念文集 )


藤原正彦氏は、平成15年の秋に、大村はま先生と対談します。
その場面も引用。

「 気性の激しい母を指導した大先生ということで、
  さすがの私も大分緊張した。・・・・

  ソファの先生は、私をどこか懐かしそうに眺め、
 『 ていさんの息子さんねー 』とおっしゃられた。 」( p322 )


注:
大村はま(1906年(明治39年)6月2日 - 2005年(平成17年)4月17日 )
は、98歳没となっております。これは亡くなる2年前の対談のときでした。 

 


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東京と大阪。東京と京都。

2023-02-05 | 地域
はい。杉山平一の詩を読み返していると、
以前は、気がつかなかった詩があったり。
うん。2つの詩を引用してみます。


     美しい大阪    杉山平一

  東京タワーの野暮をきらって
  通天閣と名付ける大阪が好きだ

  桜の宮 桜橋 桜川
  桃谷 梅田 梅ケ枝町に花をかかげ
 
  森の宮 南森町 森小路 諏訪の森
  天神の森にわけ入り
  萩の茶屋 天下茶屋に憩う

  玉造 玉手 玉川町 玉屋町の宝石に
  鶴橋 銀橋 汐見橋 水晶橋に清らな水をねがう

  惜しくも空心町 紅梅町 絹笠町を失くしたが
  なお 夕陽丘 東雲(しののめ)町に空を仰ぐ
  そんな大阪が 好きだ


忘れてたのですが、詩集に、新聞の切抜きをはさんであった。
読売新聞夕刊(2012年7月14日)「追悼抄」。
晩年の杉山氏の椅子に座っている写真があり、
5月19日、肺炎で死去、97歳。とあります。
はい。「追悼抄」からもうすこし引用。

「福島県会津若松市で生まれ、神戸、大阪で育った。
 松江で過ごした旧制高校時代・・・・

 戦後、工場経営の傍ら詩や映画評論を発表したが、
 『四季』の一員だった経歴が災いする。・・・・
 平明な言葉で詠(うた)う詩は評価されなかった。・・・

 『 世界は言葉によって発見される 』が口癖だった。
 散歩で見た光景、新聞の記事、仄聞(そくぶん)した世間話・・。

 何でも題材にした。一編一編が短く、
 東日本大震災が起きた昨春、出版準備をしていたのは、
 ようやく9冊目の詩集だった。・・・・(大阪文化・生活部 浪川知子) 」


      秘密     杉山平一

  東京で好かれる人の
  ベストワンは
  『 竹を割ったような人 』だそうだ

  京都でいちばん嫌われる
  ワーストワンは
  『 竹を割ったような人 』であるらしい

  秘密も嘘も皆無の
  ガランドウで 軽く貧相な人は
  わたしも きらいだ

  秘密も嘘もたっぷり持った人は
  なんだか豊かで
  どっしり 重い

  秘密を七つしか持たず
  嘘もへたな
  貧相な おれだ


はい。杉山平一の詩を2篇。引用しました。
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三脚脚立。

2023-02-01 | 地域
今日は、快晴で昼間は風もなし。
主なき家の伸びすぎのマキノ木の枝を切っておりました。

いままでは、ハシゴを半分に折ったタイプの脚立で
枝切をしてたんですが、今日はよく植木屋さんが
使ってるような三脚脚立でやってみたいと思い。

午前中に三脚脚立を買いにゆき、そのまま枝切り作業。
これを買ってよかった。安定してる、足の踏むステップが
二箇所になっていて、各段に腰掛けられるような安定感。
何より足裏が安定して疲れ知らず。
木に立てかけるハシゴのように近づいて設置できるし、
これを、何で今までつかわなかったのかと思いました。

スッパスッパと枝を切るだけの単純作業でしたからか、
午前中にやめる予定が、お昼も食べずに、2時半ごろまで。
帰って4時ごろに、チリバーガーを昼食と夕飯がわりに食べる。
お風呂に入って、ひさしぶりの缶ビール。
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水曜日の自由時間。

2023-01-19 | 地域
昨日の水曜日は、一日自由時間。
まずは、前日予約して、朝8時に床屋へ。
同窓生がやっている理髪店。最近その近所で
火災があり、母屋が屋根の瓦が飛ぶ大火事。
さいわい風がなく、隣家への被害は少なかったよう。
帰りがけに、そこを下道から見てみる。
二階までの壁は、防火壁になっているせいか、
一見しただけじゃ、火災後と知らずに通り過ごす。

屋根瓦の箇所が、ところどころ無くなっていて、
そこから火が吹きあがったと思われるのでした。
聞いてなければ分からず通り過ぎておりました。

床屋がおわって、9時少し前、姉の家にゆく。
お茶をご馳走になり、明日回収にだすという
読売新聞の古新聞をもらってくる。
姉夫婦は、明日は病院へ行くということです。

9時過ぎたので、郵便局へ、注文してあった
記念切手シール式をもらいに。
郵便局では、〇〇さんが郵便物を出しにきていた。
近くの高校の先生で、百周年記念誌を製作中。
だいぶ疲労困憊している様子。すこし立ち話。
その高校で両親も〇〇さんも卒業したとこのこと。
予定の枚数をオーバーし、ページ数をふやし、
3月頃になんとか発刊できそうとのこと。

兄の家にゆくと、夫婦二人して居間にいる。
すこし話してもどる。

今日は、それから夫婦してまず主なき家にいって、
この前、修理した屋根の補修箇所が大丈夫か確認。
暮れに切った松のむこうに、梅の花が咲いている。

11時開店回転寿司に一番乗りで海鮮丼と唐揚げの昼飯。
そのあと、メガネ屋へコーティングがはがれてしまって
補修ができないレンズを交換してもらったのを受け取りに。

私の頭髪は上から薄くなるというもう禿げかかっているし。
そして遠近両用メガネも見えずはずす回数が増えてきたし。

精神年齢だけが若い、というのが取り柄だったはずが、
頭もなんだか固くなって融通がきかなくなってきたし。

穏やかな天気なので3時間くらいのドライブをすることに。
海岸線を北上してゆき1時間ほどの町営の美術館をめざす。
保養にきて、永住した日本画家の掛け軸とか、
地域の方の注文に応じて書いた幟の字とか、額とか。

帰りがけに、台風15号で被害甚大だった、
岩井袋地区へとむかう。整理や修理で傷跡はなくなっている。
鳥居があったので、階段をのぼってお参り。

帰る途中に、スーパーと道路を隔てて100円均一の店がある。
お客がすくなそうなので、もどって立ち寄り1700円ほど購入。

ちょこちょこと、脇道へはいりながらのドライブ。
帰りにスーパーで、しゃぶしゃぶ肉を買って今日の夕飯。

相撲を見たりで、夜の9時からNHKBSの探偵ポワロ。
はい。亡くなった声優熊倉一雄の声が聞けるポワロ。
若い時は、口ひげを切りそろえているポワロが気に食わなかったけれど、
今になると、同じ水曜日の時間帯の『相棒』が気に食わなくなっている。

まるで、鬼平犯科帳の時代劇の人通りの混雑とかを楽しむように、
ポワロの空間を楽しんでいる自分がいます。この日は倍の時間で、
夜11頃までありました。2時間の物語をたっぷりと楽しみました。

はい。そのあと床についたので、昨日のブログ更新はなしでした。
この1日を言葉でしめ括るのは勿体ないといつもの横着がでました。



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私は好きです。

2023-01-16 | 地域
学校の図書室は、いまはどうなっているのでしょう?


昭和35年に大村はまは、石川台中学校に転任します。
そこで、図書室の蔵書を見ている箇所がありました。
何だか気になる箇所なのでした。引用しておきます。

「昭和35年の4月、私は東京都大田区の石川台中学校に転任した。
 さっそく図書室に行って、蔵書と対面した。

 端から端までゆっくり背文字を見ていたが、そのとき、
 思わず手を出した本があった。『日本つづり方作文全集』である。
 創元社から出ていた、旧版の赤い表紙の本であった。

 見ていくと、子どもたちの生活の変化、子どもを取りまく社会の変化、
 もっと細かく、子どもたちの学んでいること、教訓されていること、
 けんかのたね、また、子どもたちの楽しみにしていること、
 幸せと考えることの内容の変化、教科の名前、学用品のいろいろ、
 ―――とにかく、私はおもしろくてたまらなかった。

 その後、図書室にくる子どもたちをつかまえては、
 その本を引き出して、私のおもしろい発見を披露した。

 国語の時間にも、『 この本、読みませんか 』の時間と称して、
 はんぱに残った時間などに、いろいろの本を紹介したが、

 そんなときもよくこの赤い本を取り出して、少し前の時代の
 学校のようす、お手伝いのようすなど読み聞かせた。

 そういうとき、子どもたちは、いつもおもしろそうであった。
 これを読書教材に、と思うと、私は胸のときめきを感じた。   」

         ( p241 「大村はま国語教室」筑摩書房 第4巻 )


これは、昭和49年9月 石川台中学校三年生によって
単元学習『 明治・大正・昭和の作文の歩み 』として結実しておりました。

全集には、単元の個人発表の箇所が付されてます。
三年A組 太田久美子さんの、最後の箇所も引用。

「明治の文体には、文語体が多く、そのため、ひきしまった感じを受ける。
 ・・・・・

 昭和にはいると、ほとんどが口語体になり、敬語文も非常に多くなってきた。
 昭和戦前は、大正時代の延長のようで、表現に大きな変化がないが、
 戦後になると、急にやわらかい、親しみやすい表現になってきている。
 
 そして、文末の表現の種類がふえて、変化に富んだのびのびした文章である。
 また、明治時代にはあまり見られなかったあいまいな表現、
 二重否定なども多くなっている。自分の意志や、推量、感動が
 特にたくさん文末に使われている。

 感動・断定の表現には、各時代の特色があり、
 その表現の移り変わりが大きい。・・・・      」


また『 あとがき から 』も、ひとり(北村美弥)紹介することに。

「作文を書くのは苦手だけれど、
 誰かが書いたものを読んだりすることはとても楽しいので私は好きです。
 それを書いた人の考えや、その時の情景が私にも少しわかってくるような
 気がするからです。
 そんな訳で、今度の研究は、大へん興味がひかれました。・・・・ 」

            ( p289~290 )


はい。このGOOブログでの皆さんの文を読ませていただいていると、
これからは、中学三年生の北村美弥さんの言葉が浮ぶのだろうなあ。

『 誰かが書いたものを読んだりすることはとても楽しいので私は好きです 』


 
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恩師の年賀葉書。

2023-01-10 | 地域
うん。私にも中学校で忘れられない先生がいました。
国語の先生で、杉村先生といいました。

もう20年以上前に、子供の中学校の広報誌に
載せたいからと自由題で、急きょピンチヒッターとして
注文がきました。その際の文がとってありました。

たまには、そんなのから引用させてください。

「・・私の忘れがたい恩師は、○○中の先生でした。
『夕鶴』などを教えてくださった国語の杉村〇〇先生。

廊下をペタペタと底の堅い教員用のつっかけで、
音をたてて歩く先生でした。

ボンクラな私は、国語の授業とは、このようなものだろうと、
うかつにも思いこんでいました。ところが、
高校で国語をうけてもつまらない。
何でほかの先生はこんなにつまらないんだろう、と思っておりました。

杉村先生の国語の魅力に気づくのに、自分なりにまわり道をして
時間がかかりました。

さて、現在の話です。3年前偶然に杉村先生の奥さんと話す機会にめぐまれました。
杉村先生は昭和49年に42歳で亡くなっておられます。
奥さんの三恵子先生は、もう退職まじかで〇〇小学校の校長先生でした。

その当時の文章を読ませてほしいとお願いしておいて、取りにうかがうと、
風呂敷に包んでありました。お線香の匂いがしました。
三恵子先生は、亡くなってから、その資料を仏壇の下に包んで置かれ。
忙しさも手伝って、いまだに落ち着いて触れる気にならないとお聞きしました。

その資料からひとつ引用させていただきます。
それは、亡くなる前年に同僚にあてた年賀葉書の文面です。
『教室で』とあります。

 『 生徒たちは活字と格闘し
   むんむんと新しい世界に飛躍します。
    ・・・・・・
   なに?なぜ?とどん欲な生徒の息吹が
   無限に教室と私の心に流れます。

   人間のために学ぼう
   人間の心を大切にしよう。
   心あることばでいつまで語ろうと思います。
   母国語の心のことばで
   それを大切にしようと思います。   』

この年賀葉書の文面は、奥さんも知らずに。
たまたま、宛名不明で戻ってきたので読むことができたそうです。
杉村先生らしい偶然だと思い。そういうこぼれでたような
偶然に感謝して読ませていただきました。  」


ちなみに、この文は、最初の依頼の字数に合わせて書いたのですが、
広報委員の方からあとで、収まりきらないので半分にしてほしいと、
依頼され、この文を半分に削って掲載されました。掲載文は、
自分でも何をいっているのやら、わからない文になっておりました。
はい。20年以上すぎてから、この文をブログに引用するなんて、
思ってもみないことでした(笑)。

はい。私の大村はま先生への興味は、
どうやら杉村先生という下地があり、
自然と繋がっているのだと思います。


コメント (2)
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