雑誌「太陽」1974年10月号は特集「画家青木繁」。
そこに、熊谷守一が「絵の友達青木繁」として談話を載せております。
それは、こうはじまっておりました。
「青木はねぇ、はじめ学校はいった時分は、自分が絵が少しばかりできるんで、なんでもできると思ったんです、費用なしで勉強できると。それがそうじゃないでしょう。下宿代も払わなくちゃ。そこが境目になって、本当は気がやさしいんですけど、もう怒っちゃったんですね。で、威張ることを覚えて。・・・・青木みたいに銭なしで無茶苦茶やって、しかも絵が好きで沢山描きましたからね、おかしなもんだ。あれあたりまえにしてちゃあ絵なんか描けやしない。私の友達の絵具箱持って旅行に行っちゃったりして、青木の言い草がね『あれが描いたより俺が描いた方がいい』ってんですわ。まあ、青木流のね、貴族だから。とられた方が『俺、絵下手だし、青木の方がいいけれど俺も絵が描きたいんだ』といって怒っていた。四、五年経ったら『まあ仕方がないわ』といってましたが。
しょっちゅう手紙もらってね。『大荒れの風凪ぎし後 海遠み 妹子(もこ)居る島に 松折れし』と書いた絵葉書が着いたんですよ。海岸に松があって風が吹いてんですわ。・・・」
どういう風な画学生だったのか。
「高村真夫は『熱心なる併しながら可なり怠慢なる真面目の画学生であつた』と評している。適切な評価である。頭がよかったこと、はじめから考えを定めて研究していたことなどをあげ、『他の画学生の様に絵にかぢり付いて唯コツコツと纏まるのを喜んで居る風はなかつた。何んでも絵を作る原則とでも云う可きものを片端から理論で考えてやって見ると云う風であった。夫が為め動(やや)もすると硬い冷たい絵が出来る事があった』(大正二年)と指摘している。その努力のし方は写実一点張りのやり方に疑問をもちはじめた結果であろうし、そのことはまたかれの天性の資質である文学好きと結びついてもいた。」(松永伍一著「青木繁」p67~68)
このくだりをもうすこし引用していきましょう。
梅野満男の証言とあります。
「青木君が学費は家庭の都合上二カ年四ヶ月にして絶えてゐる。此悲境に処した君が覚悟は洵にいぢらしいものであった。自己生活の苦闘と芸術上の煩悶とは潮の様に押寄せて来て一波一波険悪の状態を加ふるのみである。此狂涛を押し切って進んだ青木君の姿は勇ましくもあり痛ましくもあった」(p72)
「『其の頃の青木君は鼻緒のゆるんだ、歯を片高にすりへらした下駄をコロつかせながら、異臭を放つ着物に僕の古袴をはいて僕の古帽子を被って超然たる態度で、例の顔をあふ向けて大道を闊歩した。学校に行くにも古袴で通している青木君は元来身体の代謝がひどく汗や油が出る痰を吐く、手を擦すると垢がごろごろする。それを指で丸めると云う癖があって、よく物を汚す指紋を付ける』。久留米地方では、こういう態度や身なりを『ふぞろっか』と言い軽蔑していたが、上京して赤貧の中にいると気位も何もあったものではなく、手足の垢を丸めて遊び、自分の臭いさえ気にならなくなっている画学生となっていた。銭湯に行ってインバネスを取ったら素っ裸であったという話も、かれにとっては驚くことにはいらなかったらしい。汚れた下着をつけていない方が臭味は少なかったかも知れない。」(p73)
ここに「インバネスを取ったら素っ裸で」とあります。
ここから、房州の布良へ行った夏の旅行を思い出してみたいのです。
相撲取りはマワシをしめているのですが、漁師町の夏はフンドシか、裸でしょう。
その漁師町というのは、どんな風があったか。
たとえば、谷川健一著「独学のすすめ」(晶文社)にこんな箇所があるのを思い出しました。
「渚はふつう学問の対象になりにくい。しかし自然を相手に生きる人間はそこを大切に思うから、渚は重要なのです。私は小学生のとき故郷の熊本県水俣で朝早く浜辺にいって、地引き網を引いている漁師から雑魚を分けてもらった経験があります。そこに居あわせたものには、魚獲物を分配する習慣が日本各地でおこなわれていました。魚獲物は海神の贈り物であるから、それはひとり占めにしてはならず、すべての者に平等に分配しなければならぬという思想が古代から綿々と受けつがれているからです。分配したものを、めいめいが受けとる、その取り分をタマスといいます。柳田(國男)はタマスはタマシイとか賜うという言葉に由来すると述べています。そこに居合わせた者ももらうのを見ダマスといいます。私の場合は見ダマスだったのです。私はそこで平等という観念を教えられました。学校で教師から習ったのではなく、幼年時代、浜辺で漁師から習ったのです。」
青木繁は、布良の海に水中眼鏡でもぐっていたとあります。
そこから、豊富な魚介類を気軽に採っては食べていたのだろうと想像できます。
そういえば、「海の幸」は収穫した魚を分かち、凱旋している人達の姿が描かれております。貴族趣味で、しかも貧乏していた青木繁が、房州の布良でのひと夏をどのような充実した気持ちで過ごしていたか。その夏を着物の心配もいらず、食事の心配もいらず。布良の雰囲気にひたりながら、それを昇華するように絵筆をもって、タマスとしての「海の幸」を描いていたのではないか。またしても実物の絵を見ないで語る私でありました。
そこに、熊谷守一が「絵の友達青木繁」として談話を載せております。
それは、こうはじまっておりました。
「青木はねぇ、はじめ学校はいった時分は、自分が絵が少しばかりできるんで、なんでもできると思ったんです、費用なしで勉強できると。それがそうじゃないでしょう。下宿代も払わなくちゃ。そこが境目になって、本当は気がやさしいんですけど、もう怒っちゃったんですね。で、威張ることを覚えて。・・・・青木みたいに銭なしで無茶苦茶やって、しかも絵が好きで沢山描きましたからね、おかしなもんだ。あれあたりまえにしてちゃあ絵なんか描けやしない。私の友達の絵具箱持って旅行に行っちゃったりして、青木の言い草がね『あれが描いたより俺が描いた方がいい』ってんですわ。まあ、青木流のね、貴族だから。とられた方が『俺、絵下手だし、青木の方がいいけれど俺も絵が描きたいんだ』といって怒っていた。四、五年経ったら『まあ仕方がないわ』といってましたが。
しょっちゅう手紙もらってね。『大荒れの風凪ぎし後 海遠み 妹子(もこ)居る島に 松折れし』と書いた絵葉書が着いたんですよ。海岸に松があって風が吹いてんですわ。・・・」
どういう風な画学生だったのか。
「高村真夫は『熱心なる併しながら可なり怠慢なる真面目の画学生であつた』と評している。適切な評価である。頭がよかったこと、はじめから考えを定めて研究していたことなどをあげ、『他の画学生の様に絵にかぢり付いて唯コツコツと纏まるのを喜んで居る風はなかつた。何んでも絵を作る原則とでも云う可きものを片端から理論で考えてやって見ると云う風であった。夫が為め動(やや)もすると硬い冷たい絵が出来る事があった』(大正二年)と指摘している。その努力のし方は写実一点張りのやり方に疑問をもちはじめた結果であろうし、そのことはまたかれの天性の資質である文学好きと結びついてもいた。」(松永伍一著「青木繁」p67~68)
このくだりをもうすこし引用していきましょう。
梅野満男の証言とあります。
「青木君が学費は家庭の都合上二カ年四ヶ月にして絶えてゐる。此悲境に処した君が覚悟は洵にいぢらしいものであった。自己生活の苦闘と芸術上の煩悶とは潮の様に押寄せて来て一波一波険悪の状態を加ふるのみである。此狂涛を押し切って進んだ青木君の姿は勇ましくもあり痛ましくもあった」(p72)
「『其の頃の青木君は鼻緒のゆるんだ、歯を片高にすりへらした下駄をコロつかせながら、異臭を放つ着物に僕の古袴をはいて僕の古帽子を被って超然たる態度で、例の顔をあふ向けて大道を闊歩した。学校に行くにも古袴で通している青木君は元来身体の代謝がひどく汗や油が出る痰を吐く、手を擦すると垢がごろごろする。それを指で丸めると云う癖があって、よく物を汚す指紋を付ける』。久留米地方では、こういう態度や身なりを『ふぞろっか』と言い軽蔑していたが、上京して赤貧の中にいると気位も何もあったものではなく、手足の垢を丸めて遊び、自分の臭いさえ気にならなくなっている画学生となっていた。銭湯に行ってインバネスを取ったら素っ裸であったという話も、かれにとっては驚くことにはいらなかったらしい。汚れた下着をつけていない方が臭味は少なかったかも知れない。」(p73)
ここに「インバネスを取ったら素っ裸で」とあります。
ここから、房州の布良へ行った夏の旅行を思い出してみたいのです。
相撲取りはマワシをしめているのですが、漁師町の夏はフンドシか、裸でしょう。
その漁師町というのは、どんな風があったか。
たとえば、谷川健一著「独学のすすめ」(晶文社)にこんな箇所があるのを思い出しました。
「渚はふつう学問の対象になりにくい。しかし自然を相手に生きる人間はそこを大切に思うから、渚は重要なのです。私は小学生のとき故郷の熊本県水俣で朝早く浜辺にいって、地引き網を引いている漁師から雑魚を分けてもらった経験があります。そこに居あわせたものには、魚獲物を分配する習慣が日本各地でおこなわれていました。魚獲物は海神の贈り物であるから、それはひとり占めにしてはならず、すべての者に平等に分配しなければならぬという思想が古代から綿々と受けつがれているからです。分配したものを、めいめいが受けとる、その取り分をタマスといいます。柳田(國男)はタマスはタマシイとか賜うという言葉に由来すると述べています。そこに居合わせた者ももらうのを見ダマスといいます。私の場合は見ダマスだったのです。私はそこで平等という観念を教えられました。学校で教師から習ったのではなく、幼年時代、浜辺で漁師から習ったのです。」
青木繁は、布良の海に水中眼鏡でもぐっていたとあります。
そこから、豊富な魚介類を気軽に採っては食べていたのだろうと想像できます。
そういえば、「海の幸」は収穫した魚を分かち、凱旋している人達の姿が描かれております。貴族趣味で、しかも貧乏していた青木繁が、房州の布良でのひと夏をどのような充実した気持ちで過ごしていたか。その夏を着物の心配もいらず、食事の心配もいらず。布良の雰囲気にひたりながら、それを昇華するように絵筆をもって、タマスとしての「海の幸」を描いていたのではないか。またしても実物の絵を見ないで語る私でありました。