松永伍一著「青木繁 その愛と放浪」(NHKブックス)に
こんな箇所がありました。福田たね、との恋に触れながら、
「いくつかの『海』の連作、『海景』、そして問題作『海の幸』が、房州における産物であった。言い換えるなら、それは布良がかれに描かせたものでもある・・」
と布良という地について書いておりました。
さてっと、青木繁の作品「わだつみのいろこの宮」については、松永氏はこう書いております。
「『わだつみのいろこの宮』は、気迫のこもった青木繁の自信をもった筆さばきで仕上がっていた。知られている話だが、この作品を描くきっかけは日本美術院の画家で歌人の安江不空の話からつかんだと言われるが、あの房州布良で青木繁は水中眼鏡をつけて海底にもぐったりしているうちに、日本神話に出てくる海底宮殿のイメージをつかんだことにはじまり、父の病気見舞いで久留米に帰っていたとき、長崎まで足を運びそこで潜水器を借りて二百呎の海底にもぐってみて、海中の世界を描く下地ができあがったらしい。これまでに海中を画の題材とした者はほとんどない。かれは神話をつぶさに研究し、画家というより国文学者のような微細な調べ方で絵の構図をまとめてみた。だから、計算が行き届いてどこか知的な冷やかさが出て来る。・・・・時間をかけて練りあげていくうちにイメージが弾力を失っていく悪い傾向がかれの中にいつも用意されていた。『海の幸』には動きがあるが、『わだつみのいろこの宮』は静止している。構図を考えぬいて幾何学的な思考を押し進めた結果、図柄のおもしろさの割に人物たちが硬くなってしまった。」(p104)
ところで、房州の布良に旅行に来る前も、妙義・信州へのスケッチ旅行をしておりました。
そこで青木は「坂本は、その誘いを受け、金はないが大丈夫か、と念を押した。『みんなどうせないんだ。無銭旅行というのも味なものだぜ』と青木は扇動しなが小諸義塾には不同舎の先輩の丸山晩霞がいるから何とかなる、といった調子で・・・」(p82)とあります。
そういえば、布良に来る時も、こうあります。
「高島の紹介状を持って布良を訪れた青木ら四人は、柏屋の近くの小谷喜六という漁師の家に泊まることとなった。いまの『民宿』である。おそらく高島は、かれらが貧乏な若い画家であることを手紙に書き、安く泊めてもらえる普通の家を斡旋してくれと頼んでいたのだろう。」(p15)
その貧乏ぶりは、熊谷守一の言葉でよく知れるのですが、ここでは省略して、
興味深いのは、旅館じゃなく漁師の家に泊めてもらって1ヵ月以上いたということなのです。水中眼鏡も、おそらくその家でかりたのではないでしょうか。
布良から出した青木繁の手紙のなかには、魚の名前がズラズラと並んでおりました。そして、手紙の列挙の後の方には、
磯辺では
タコ
イセエビ
メチダイ
メジナ
・ ・・・・
アワビ
ハマグリ
タマガヒ
トコボシ
ウニ
イソギンチャク
ホラノカヒ
サザエ
アカニシ
ツメガヒ
・ ・・・
と海産物の列挙がありました。どう思いますか。
青木繁は、水中眼鏡でたとえば、サザエやトコブシ、ハマグリやアワビを採っては
、布良の夏の海岸で、それらを皆で食べていたのじゃないでしょうか。
いまじゃ、資源保護に漁業権とかありますから、地元漁師しか採れないでしょうけれども、明治のその頃なら、水にもぐらなくとも、潮が引けば豊富に、それらが、採れたことでしょう。
そんなことを思いうかべながら、『海の幸』の夏を想像してみると、また別の感慨が浮かんできたりします。
こんな箇所がありました。福田たね、との恋に触れながら、
「いくつかの『海』の連作、『海景』、そして問題作『海の幸』が、房州における産物であった。言い換えるなら、それは布良がかれに描かせたものでもある・・」
と布良という地について書いておりました。
さてっと、青木繁の作品「わだつみのいろこの宮」については、松永氏はこう書いております。
「『わだつみのいろこの宮』は、気迫のこもった青木繁の自信をもった筆さばきで仕上がっていた。知られている話だが、この作品を描くきっかけは日本美術院の画家で歌人の安江不空の話からつかんだと言われるが、あの房州布良で青木繁は水中眼鏡をつけて海底にもぐったりしているうちに、日本神話に出てくる海底宮殿のイメージをつかんだことにはじまり、父の病気見舞いで久留米に帰っていたとき、長崎まで足を運びそこで潜水器を借りて二百呎の海底にもぐってみて、海中の世界を描く下地ができあがったらしい。これまでに海中を画の題材とした者はほとんどない。かれは神話をつぶさに研究し、画家というより国文学者のような微細な調べ方で絵の構図をまとめてみた。だから、計算が行き届いてどこか知的な冷やかさが出て来る。・・・・時間をかけて練りあげていくうちにイメージが弾力を失っていく悪い傾向がかれの中にいつも用意されていた。『海の幸』には動きがあるが、『わだつみのいろこの宮』は静止している。構図を考えぬいて幾何学的な思考を押し進めた結果、図柄のおもしろさの割に人物たちが硬くなってしまった。」(p104)
ところで、房州の布良に旅行に来る前も、妙義・信州へのスケッチ旅行をしておりました。
そこで青木は「坂本は、その誘いを受け、金はないが大丈夫か、と念を押した。『みんなどうせないんだ。無銭旅行というのも味なものだぜ』と青木は扇動しなが小諸義塾には不同舎の先輩の丸山晩霞がいるから何とかなる、といった調子で・・・」(p82)とあります。
そういえば、布良に来る時も、こうあります。
「高島の紹介状を持って布良を訪れた青木ら四人は、柏屋の近くの小谷喜六という漁師の家に泊まることとなった。いまの『民宿』である。おそらく高島は、かれらが貧乏な若い画家であることを手紙に書き、安く泊めてもらえる普通の家を斡旋してくれと頼んでいたのだろう。」(p15)
その貧乏ぶりは、熊谷守一の言葉でよく知れるのですが、ここでは省略して、
興味深いのは、旅館じゃなく漁師の家に泊めてもらって1ヵ月以上いたということなのです。水中眼鏡も、おそらくその家でかりたのではないでしょうか。
布良から出した青木繁の手紙のなかには、魚の名前がズラズラと並んでおりました。そして、手紙の列挙の後の方には、
磯辺では
タコ
イセエビ
メチダイ
メジナ
・ ・・・・
アワビ
ハマグリ
タマガヒ
トコボシ
ウニ
イソギンチャク
ホラノカヒ
サザエ
アカニシ
ツメガヒ
・ ・・・
と海産物の列挙がありました。どう思いますか。
青木繁は、水中眼鏡でたとえば、サザエやトコブシ、ハマグリやアワビを採っては
、布良の夏の海岸で、それらを皆で食べていたのじゃないでしょうか。
いまじゃ、資源保護に漁業権とかありますから、地元漁師しか採れないでしょうけれども、明治のその頃なら、水にもぐらなくとも、潮が引けば豊富に、それらが、採れたことでしょう。
そんなことを思いうかべながら、『海の幸』の夏を想像してみると、また別の感慨が浮かんできたりします。