坂本繁二郎著「私の絵 私のこころ」(日本経済新聞社)というのがありました。
坂本繁二郎氏は明治15年(1882)生まれ。そして昭和44年(1969)7月に亡くなっております。その亡くなった年の5~6月にかけて日経の「私の履歴書」を寄稿したのが、この「私の絵 私のこころ」。ということで、最晩年の絶筆として口述筆記されたものだそうです。
文中にこんな箇所もあります。
「滞仏三年目の大正12年9月1日、関東大震災の報はパリに届きました。不安な話題が続いた1年、予定のパリ生活が過ぎたのです。私にとっては長い長い3年間と思えました。大正13年の夏、3年間のパリ生活を終えて、マルセイユから香取丸に乗りました。」(p78)
ちなみに「大正10年7月末、私は、滞欧中は久留米に帰る母や妻薫、長女の栞、それに二つになっていた二女の幽子を東京駅から見送り・・」とありますので、家族の心配はなかったようです。
ここに青木繁への言及がありますので、ところどころを引用したいと思います。
「明治32年、青木は中学校の数学教師と衝突して退学届をたたきつけ、身寄り一人ない東京へ『絵の勉強する』と言い残して去って行きました。『坂本、一緒に行こう』何度も誘う青木の言葉と、絵では後輩のはずの青木が一足先に上京することへの微妙な心情で大いに揺れ動かされたことが昨日のことのようです。それまではさほど意識していなかった青木繁の存在でしたが、上京する彼を見送ってからは、心のすみに、藤村の若菜集一冊だけを手にして去って行った彼の姿が強く印象に残り、・・・そのころは九州出身の黒田清輝や久米桂一郎がはなやかに画壇の話題を集め、久留米あたりまでニュースが流れ伝わってきました。」
「兄の死であきらめていた上京の夢は前にもましてつのり、それには目前に迫った徴兵検査で不合格になりますよう、母の許しが出ますよう祈る気持ちの連続でした。検査は乙種でした。ちびが幸いして、背丈が規則の百五十三センチより三ミリたりなかったのです。・・・翌年の明治三十六年から身長基準は一寸下げて五尺までになりましたから、あと一年おそく生まれていたら日露戦争にかり出されていたでしょう。久留米連隊は強いことで知られ、現に私の友のなかに遼陽の激戦で戦死したものがたくさんおります。」
そして、徴兵検査のために帰っていた青木繁と上京することになります。
ちなみに、青木繁は乱視のために徴兵検査に落ちたとあります。
「不同舎は本郷追分町にありました。宿舎は小山先生の借家を塾生数人が協同借用したのでタダ同然。・・・周囲のすべてが絵の道一途で、大体だれもが親の反対を押し切ってきているだけに、国からたっぷり仕送りがくるなんて者はいなかったでしょう。学費どころか食べることに追われて、夜は人力車を引いたり、夜店の番などしてこつこつ絵を勉強していました。しかも絵描きなどは、いまと違って社会の半端者扱いの時代ですから、ますます塾生同士の友情は深まり、いろいろと助け合ったものです。」
写生旅行についても記述がでてきます。
「上京した年の十一月、私は青木と東京美術学校西洋画科本科に学んでいた丸野豊との三人で信州方面に写生旅行に出たことがあります。あり金は汽車賃にとっておき、テクれるだけテクり、夜は野宿同然の無銭旅行でした・・・」
つぎの明治37年夏の布良海岸への写生旅行も語られているのでした。
「青木には、秋の白馬会展を目ざして、日本の古典からヒントを得た『海の幸』『山の幸』の二部作をものにする野心が初めからあったようです。あるナギの午後、私は近くの海岸で壮大なシーンに出会いました。年に一、二度、あるかなしやの大漁とかで船十余隻が帰りつくや、浜辺は老いも若きも女も子供の、豊漁の喜びに叫び合い、夏の日ざしのなか、懸命の水揚げです。私はスケッチも忘れただ見とれるだけの数時間でした。夜、青木にその光景を伝えますと、青木の目は異様に輝き、そこに『海の幸』の構想をまとめたのでしょう、翌朝からは大騒ぎのうちに制作が始まりました。
他の三人はもっぱら手伝い役。こちらの迷惑などはお構いなしで、モデルの世話だ、画材の買い入れだと追い回されました。青木独特の集中力、はなやかな虚構の才には改めて驚かされました・・・」(p39)
坂本繁二郎氏は明治15年(1882)生まれ。そして昭和44年(1969)7月に亡くなっております。その亡くなった年の5~6月にかけて日経の「私の履歴書」を寄稿したのが、この「私の絵 私のこころ」。ということで、最晩年の絶筆として口述筆記されたものだそうです。
文中にこんな箇所もあります。
「滞仏三年目の大正12年9月1日、関東大震災の報はパリに届きました。不安な話題が続いた1年、予定のパリ生活が過ぎたのです。私にとっては長い長い3年間と思えました。大正13年の夏、3年間のパリ生活を終えて、マルセイユから香取丸に乗りました。」(p78)
ちなみに「大正10年7月末、私は、滞欧中は久留米に帰る母や妻薫、長女の栞、それに二つになっていた二女の幽子を東京駅から見送り・・」とありますので、家族の心配はなかったようです。
ここに青木繁への言及がありますので、ところどころを引用したいと思います。
「明治32年、青木は中学校の数学教師と衝突して退学届をたたきつけ、身寄り一人ない東京へ『絵の勉強する』と言い残して去って行きました。『坂本、一緒に行こう』何度も誘う青木の言葉と、絵では後輩のはずの青木が一足先に上京することへの微妙な心情で大いに揺れ動かされたことが昨日のことのようです。それまではさほど意識していなかった青木繁の存在でしたが、上京する彼を見送ってからは、心のすみに、藤村の若菜集一冊だけを手にして去って行った彼の姿が強く印象に残り、・・・そのころは九州出身の黒田清輝や久米桂一郎がはなやかに画壇の話題を集め、久留米あたりまでニュースが流れ伝わってきました。」
「兄の死であきらめていた上京の夢は前にもましてつのり、それには目前に迫った徴兵検査で不合格になりますよう、母の許しが出ますよう祈る気持ちの連続でした。検査は乙種でした。ちびが幸いして、背丈が規則の百五十三センチより三ミリたりなかったのです。・・・翌年の明治三十六年から身長基準は一寸下げて五尺までになりましたから、あと一年おそく生まれていたら日露戦争にかり出されていたでしょう。久留米連隊は強いことで知られ、現に私の友のなかに遼陽の激戦で戦死したものがたくさんおります。」
そして、徴兵検査のために帰っていた青木繁と上京することになります。
ちなみに、青木繁は乱視のために徴兵検査に落ちたとあります。
「不同舎は本郷追分町にありました。宿舎は小山先生の借家を塾生数人が協同借用したのでタダ同然。・・・周囲のすべてが絵の道一途で、大体だれもが親の反対を押し切ってきているだけに、国からたっぷり仕送りがくるなんて者はいなかったでしょう。学費どころか食べることに追われて、夜は人力車を引いたり、夜店の番などしてこつこつ絵を勉強していました。しかも絵描きなどは、いまと違って社会の半端者扱いの時代ですから、ますます塾生同士の友情は深まり、いろいろと助け合ったものです。」
写生旅行についても記述がでてきます。
「上京した年の十一月、私は青木と東京美術学校西洋画科本科に学んでいた丸野豊との三人で信州方面に写生旅行に出たことがあります。あり金は汽車賃にとっておき、テクれるだけテクり、夜は野宿同然の無銭旅行でした・・・」
つぎの明治37年夏の布良海岸への写生旅行も語られているのでした。
「青木には、秋の白馬会展を目ざして、日本の古典からヒントを得た『海の幸』『山の幸』の二部作をものにする野心が初めからあったようです。あるナギの午後、私は近くの海岸で壮大なシーンに出会いました。年に一、二度、あるかなしやの大漁とかで船十余隻が帰りつくや、浜辺は老いも若きも女も子供の、豊漁の喜びに叫び合い、夏の日ざしのなか、懸命の水揚げです。私はスケッチも忘れただ見とれるだけの数時間でした。夜、青木にその光景を伝えますと、青木の目は異様に輝き、そこに『海の幸』の構想をまとめたのでしょう、翌朝からは大騒ぎのうちに制作が始まりました。
他の三人はもっぱら手伝い役。こちらの迷惑などはお構いなしで、モデルの世話だ、画材の買い入れだと追い回されました。青木独特の集中力、はなやかな虚構の才には改めて驚かされました・・・」(p39)