「坊つちやん」の第二章のはじまり
「ぶうといって汽船がとまると、艀(はしけ)が岸を離れて、漕ぎ寄せて来た。船頭は真っ裸に赤ふんどしをしめている。野蛮な所だ。もっともこの熱さでは着物はきられまい。・・・見た所では大森ぐらいな漁村だ。人を馬鹿にしていらあ、こんな所に我慢が出来るものかと思ったが仕方がない。」
ここに「大森ぐらいな漁村だ」という箇所
岩波少年文庫「坊つちゃん」の注には、「大森:現在の大田区大森。当時は海に面しており、海水浴や漁ができた」とあります。そうか大森貝塚で知られるところですね。
ということでモースに登場していただきます。
モースは1838年~1925年。そのうち1877~1880には東大で生物学を教えております。
ちなみに、夏目漱石は1867年~1916年。
ということで、そそくさと次にいきます。
ここで渡辺京二著「逝きし世の面影」(葦書房)からの引用。
「モースは滞日中・・・・広島の旅館に泊ったときのことだが、この先の旅程を終えたらまたこの宿に戻ろうと思って、モースは時計と金をあずけた。女中はそれを盆にのせただけだった。不安になった彼は宿の主人に、ちゃんとどこかに保管しないのかと尋ねると、主人はここに置いても絶対に安全であり、うちには金庫などないと答えた。一週間後この宿に帰ってみると、『時計はいうに及ばず、小銭の一セントに至る迄、私がそれ等を残して行った時と全く同様に、蓋のない盆の上にのっていた』のである。もちろんそれは、日本に盗人がいないという意味ではないし、くすねや盗みがないということでもない。ヘボンは来日直後の手紙に『窃盗は普通で、なかなか大胆です。ここより長崎の方がひどいです』と書いている。・・・モースは、日本に数ヵ月以上いた外国人はおどろきと残念さをもって、『自分の国で人道の名において道徳的教訓の重荷になっている善徳や品性を、日本人が生まれながらに持っている』ことに気づくと述べ、それが『恵まれた階級の人々ばかりではなく、最も貧しい人々も持っている特質である』ことを強調する。」
さて外国から日本へ来た人の驚きを記したのは、
日本から外国へ留学した人の驚きを記したいからなのでした。
私が思いうかべるのは、漱石が留学から帰った際のエピソード。
夏目鏡子著「漱石の思い出」(角川文庫)で帰朝した直後の漱石を語る箇所。
「たしか三日めか四日めのことです。
長女の筆子が火鉢の向こう側にすわっておりますと、どうしたのか火鉢の平べったいふちの上に五厘銭が一つのせてありました。べつにこれを筆子が持って来たのでもない、またそれをもてあそんでいたのでもありません。ふとそれを見ますと、こいついやな真似をするとか何とかいうかと思うと、いきなりぴしゃりとなぐったものです。何が何やらさっぱりわかりません。筆子は泣く、私もいっこう様子がわからないから、だんだんたずねてみますと、ロンドンにいた時の話、ある日街を散歩していると、乞食があわれっぽく金をねだるので、銅貨を一枚出して手渡してやりましたそうです。するとかえってきて便所に入ると、これ見よがしにそれと同じ銅貨が一枚便所の窓にのっているというではありませんか。小癪な真似をする・・・・それと同じような銅貨が、同じくこれ見よがしに火鉢のふちにのっけてある。いかにも人を莫迦にしたけしからん子供だと思って、一本参ったのだというのですから変な話です。私も妙なことをいう人だなとは思いましたが、それなりきりでこのことは終わってしまいました。」(p112~113)
ここには、日本にいては、思いもしなかった側面からの、金銭にまつわる緊張を強いられた漱石像が垣間見られるようなのです。
「ぶうといって汽船がとまると、艀(はしけ)が岸を離れて、漕ぎ寄せて来た。船頭は真っ裸に赤ふんどしをしめている。野蛮な所だ。もっともこの熱さでは着物はきられまい。・・・見た所では大森ぐらいな漁村だ。人を馬鹿にしていらあ、こんな所に我慢が出来るものかと思ったが仕方がない。」
ここに「大森ぐらいな漁村だ」という箇所
岩波少年文庫「坊つちゃん」の注には、「大森:現在の大田区大森。当時は海に面しており、海水浴や漁ができた」とあります。そうか大森貝塚で知られるところですね。
ということでモースに登場していただきます。
モースは1838年~1925年。そのうち1877~1880には東大で生物学を教えております。
ちなみに、夏目漱石は1867年~1916年。
ということで、そそくさと次にいきます。
ここで渡辺京二著「逝きし世の面影」(葦書房)からの引用。
「モースは滞日中・・・・広島の旅館に泊ったときのことだが、この先の旅程を終えたらまたこの宿に戻ろうと思って、モースは時計と金をあずけた。女中はそれを盆にのせただけだった。不安になった彼は宿の主人に、ちゃんとどこかに保管しないのかと尋ねると、主人はここに置いても絶対に安全であり、うちには金庫などないと答えた。一週間後この宿に帰ってみると、『時計はいうに及ばず、小銭の一セントに至る迄、私がそれ等を残して行った時と全く同様に、蓋のない盆の上にのっていた』のである。もちろんそれは、日本に盗人がいないという意味ではないし、くすねや盗みがないということでもない。ヘボンは来日直後の手紙に『窃盗は普通で、なかなか大胆です。ここより長崎の方がひどいです』と書いている。・・・モースは、日本に数ヵ月以上いた外国人はおどろきと残念さをもって、『自分の国で人道の名において道徳的教訓の重荷になっている善徳や品性を、日本人が生まれながらに持っている』ことに気づくと述べ、それが『恵まれた階級の人々ばかりではなく、最も貧しい人々も持っている特質である』ことを強調する。」
さて外国から日本へ来た人の驚きを記したのは、
日本から外国へ留学した人の驚きを記したいからなのでした。
私が思いうかべるのは、漱石が留学から帰った際のエピソード。
夏目鏡子著「漱石の思い出」(角川文庫)で帰朝した直後の漱石を語る箇所。
「たしか三日めか四日めのことです。
長女の筆子が火鉢の向こう側にすわっておりますと、どうしたのか火鉢の平べったいふちの上に五厘銭が一つのせてありました。べつにこれを筆子が持って来たのでもない、またそれをもてあそんでいたのでもありません。ふとそれを見ますと、こいついやな真似をするとか何とかいうかと思うと、いきなりぴしゃりとなぐったものです。何が何やらさっぱりわかりません。筆子は泣く、私もいっこう様子がわからないから、だんだんたずねてみますと、ロンドンにいた時の話、ある日街を散歩していると、乞食があわれっぽく金をねだるので、銅貨を一枚出して手渡してやりましたそうです。するとかえってきて便所に入ると、これ見よがしにそれと同じ銅貨が一枚便所の窓にのっているというではありませんか。小癪な真似をする・・・・それと同じような銅貨が、同じくこれ見よがしに火鉢のふちにのっけてある。いかにも人を莫迦にしたけしからん子供だと思って、一本参ったのだというのですから変な話です。私も妙なことをいう人だなとは思いましたが、それなりきりでこのことは終わってしまいました。」(p112~113)
ここには、日本にいては、思いもしなかった側面からの、金銭にまつわる緊張を強いられた漱石像が垣間見られるようなのです。