PHP新書の新刊。花田紀凱・門田隆将対談の
「『週刊文春』と『週刊新潮』」が届く。
あらためて、月刊雑誌「Hanada」2月号をひらく。
その蒟蒻対談で堤堯氏が
「文春に入ってからは、
池島信平さんや粕谷一希さんに、
よく『バカ野郎!』と叱られた。
みんな死んじまったけれど、
思えば有り難い存在だったなあ。」(p101)
PHP新書の新刊の「おわりに」は
花田紀凱氏。こうはじまります。
「ぼくが文藝春秋に入社したのが昭和41年(1966年)。
以来、ずーっと雑誌の編集に関わってきた。約五十年。
・・・文藝春秋で働いた三十年のうち、
十七年間『週刊文春』で仕事をし、
うち六年間は編集長を務めた。・・・
昭和52年(1977年)、田中健五さんが
『週刊文春』の編集長になったとき、
ぼくはデスクのひとりとして月刊『文藝春秋』から
一緒に異動した。」(p307~p308)
この新書の「はじめに」で門田隆将氏は
ご自身のことを
「大学を卒業して新潮社に入社し、
週刊新潮編集部に配属された私は、
以来、2008年に独立するまで25年間勤めた。
・・うち18年を特集班のデスクとして、
特集記事を八百本近く執筆してきた。」
その「はじめに」で
川上達史・PHP新書編集長からの
依頼電話を紹介しておりました。
「川上氏はこうつづけた。
『新聞がこんな情けない状態になっている今、
これからの日本のジャーナリズムの行く末に
も言及するような対談を花田さんとやってほしいんですよ』
電話の向こうで、川上さんは、そんなことを言っている。」
(p4)
月刊「Hanada」2月号を読める楽しみに、
PHP新書の新刊もくわわります。
うん。池島信平と齋藤十一と
二つの潮流が、ここで結びつくような
何だか得した気分(笑)。
「『週刊文春』と『週刊新潮』」が届く。
あらためて、月刊雑誌「Hanada」2月号をひらく。
その蒟蒻対談で堤堯氏が
「文春に入ってからは、
池島信平さんや粕谷一希さんに、
よく『バカ野郎!』と叱られた。
みんな死んじまったけれど、
思えば有り難い存在だったなあ。」(p101)
PHP新書の新刊の「おわりに」は
花田紀凱氏。こうはじまります。
「ぼくが文藝春秋に入社したのが昭和41年(1966年)。
以来、ずーっと雑誌の編集に関わってきた。約五十年。
・・・文藝春秋で働いた三十年のうち、
十七年間『週刊文春』で仕事をし、
うち六年間は編集長を務めた。・・・
昭和52年(1977年)、田中健五さんが
『週刊文春』の編集長になったとき、
ぼくはデスクのひとりとして月刊『文藝春秋』から
一緒に異動した。」(p307~p308)
この新書の「はじめに」で門田隆将氏は
ご自身のことを
「大学を卒業して新潮社に入社し、
週刊新潮編集部に配属された私は、
以来、2008年に独立するまで25年間勤めた。
・・うち18年を特集班のデスクとして、
特集記事を八百本近く執筆してきた。」
その「はじめに」で
川上達史・PHP新書編集長からの
依頼電話を紹介しておりました。
「川上氏はこうつづけた。
『新聞がこんな情けない状態になっている今、
これからの日本のジャーナリズムの行く末に
も言及するような対談を花田さんとやってほしいんですよ』
電話の向こうで、川上さんは、そんなことを言っている。」
(p4)
月刊「Hanada」2月号を読める楽しみに、
PHP新書の新刊もくわわります。
うん。池島信平と齋藤十一と
二つの潮流が、ここで結びつくような
何だか得した気分(笑)。