鶴見俊輔の文「めだかの学校」に、
桑原武夫氏との出会いの箇所がありました。
「昭和23年に、私は桑原武夫に初めて会った。
・・のびやかなつき合いの開ける可能性がわかり、
数か月で気が楽になった。
その予感をもったのは、昭和23年の秋のある日
(ことによると夏だったかもしれない)、
日比谷のビルの一室で、人文科学研究所に集めるための
英語の新刊書のリストを作ったときで、かなりの分量の
ある英語の雑誌類を積み上げて、そのうちの書評欄を見ては、
目ぼしい本をいっしょに選んでいた時からである。
4~5時間つづけて、いっしょに仕事をしたことになったが、
私はそのころ26歳になったばかりだったが、
さらに20歳も年上の教授が私と同じように雑誌類を
ひっくりかえし、書評欄から本を選んでいく手早さに感心したし、
目ぼしいものとして選ばれた本が結果としてかなり
一致したのを見て、うれしかった。
それ以前10年近く、京大の人文科学研究所は英語の
新刊書を買っていなかったと思うので、このときに
選んだものが、戦後の再出発のときに
(とくに新設の西洋部にとって)大切な役をになった。
・・・・・・
京大の人文科学研究所の共同研究は、
教授が制度上の権威によって班員に仕事を割り当てる
という方式からはほどとおい、指導者が自分で人一倍働き
他のものも日本人らしい勤勉な習性を刺激されて自発的に
働きはじめるという方式の積み重ねでできたものである。」
うん。このあとも肝心なのですが、
つい、引用が多くなるのでこのくらいで(笑)。
桑原武夫氏との出会いの箇所がありました。
「昭和23年に、私は桑原武夫に初めて会った。
・・のびやかなつき合いの開ける可能性がわかり、
数か月で気が楽になった。
その予感をもったのは、昭和23年の秋のある日
(ことによると夏だったかもしれない)、
日比谷のビルの一室で、人文科学研究所に集めるための
英語の新刊書のリストを作ったときで、かなりの分量の
ある英語の雑誌類を積み上げて、そのうちの書評欄を見ては、
目ぼしい本をいっしょに選んでいた時からである。
4~5時間つづけて、いっしょに仕事をしたことになったが、
私はそのころ26歳になったばかりだったが、
さらに20歳も年上の教授が私と同じように雑誌類を
ひっくりかえし、書評欄から本を選んでいく手早さに感心したし、
目ぼしいものとして選ばれた本が結果としてかなり
一致したのを見て、うれしかった。
それ以前10年近く、京大の人文科学研究所は英語の
新刊書を買っていなかったと思うので、このときに
選んだものが、戦後の再出発のときに
(とくに新設の西洋部にとって)大切な役をになった。
・・・・・・
京大の人文科学研究所の共同研究は、
教授が制度上の権威によって班員に仕事を割り当てる
という方式からはほどとおい、指導者が自分で人一倍働き
他のものも日本人らしい勤勉な習性を刺激されて自発的に
働きはじめるという方式の積み重ねでできたものである。」
うん。このあとも肝心なのですが、
つい、引用が多くなるのでこのくらいで(笑)。