河野仁昭著「京ことばの知恵」(光村推古書院)。
これも古本で購入してあった。
はい。忘れてました(笑)。
身辺雑記を毎回3頁にまとめています。
そこに、天野忠さんが登場する回がある。
それを、引用してみます。
「和田洋一・松田道雄・天野忠の鼎談『洛々春秋』にも、
『お茶漬けでも』が出てくる。
和田氏が、京都人は口と心の中が違うと言い出したのを受けて、
松田氏は『京都のルールというもの』があって、『お茶漬けでも』
といったときは、『もう、お帰りになった方がいいですよ』という
ことを婉曲にいっているわけだから、『結構です』といって
帰ればいい、直接的な意味はないんだからという。
これに対して、職人町育ちの天野さんは、
『うちらは、職人同士のつきあいで、そんなことなかったように、
おぼえてますね。「ごはん、どうどすか」というたら「おおきに」
いうて「ちょうど、メシどきやし、よばれまっさ」っていうのが
多かったでっせ』
というのである。
同業者仲間はいわば身内のようなもので、気心も知り合っていれば
家庭の内情も分かり合っていたらしいことをうかがわせる。
・・・」(p35)
「水菜のひねたん」と題する文にも登場します。
「・・鼎談『洛々春秋』のなかで、中京の職人町に生まれ育った
詩人の天野さんは、次にように語っている。
『うちらは、じじむさいですわ。うちらのものみせたら、
それこそおつけ物ひとつでもね、水菜のひねたんしかなかったり、
きのうの水菜と、お揚げさんと豆腐とたいた残りがある。
それくらいのものしかない』
・・・・
『水菜のひねた』漬物とか、『あらめとお揚げのたいたん』とか、
その語感からして京の庶民のつつましい台所を彷彿させるようで
ほほえましい。両方ともわたしは好きだし、そういう物を食べて
育ったのである。しかし、いくら好きだとはいえ、天野さんがいうように、
気をおかねばならない客にすすめたいとは思わない。」(p23)
話しはかわりますが、
私には好きな詩集が数冊あって、そのなかに
天野忠詩集『讃め歌抄』(編集工房ノア)があります。
それはそうと、
山田稔著「北園町九十三番地 天野忠さんのこと」。
そのはじめのほうに、こんな箇所がありました。
「私が天野忠の読売文学賞受賞を知るよりおよそ二年前の
1980年に天野忠・松田道雄・和田洋一の3名による鼎談
『洛々春秋』が京都新聞に連載されている。しかし当時、
私の友人の間で話題になった記憶はない。
その鼎談が単行本になったものを私は持っているが、
何時読んだかはっきりしない。つまり天野忠は私にとって
その程度の関心しかひかない存在だったようである。
いや、私だけでなく、詩壇のなかのごく一部の人を除いては、
誰も天野忠を知らなかったと言ってもかまわないだろう。
・・・文芸時評で丸谷才一はこう書いている。
『これほどの詩人を知らなかったことをわたしは恥じた。』
それでも詩人は無名でありつづける。
松田道雄の言葉を借りれば、みずからの詩的感覚を保持する
ために『有名になるのを拒否』していたのである。」
(p19)
はい。天野忠の詩がわかるための着眼点として、
『中京の職人町に生まれ育った詩人の天野さん』。
ここから、その輪郭がつかめるかもしれない(笑)。
思い浮かべるのは、詩人田村隆一さん。
大岡信の田村隆一追悼詩のなかの3行。
「大塚の花街に隣る料理屋育ちの
折目正しい日本語と べらんめえの啖呵の混ざる
あんたの口語は真似できそうで できなかった」
たしか、その田村隆一のエッセイで、
天野忠の詩を紹介していたことがあったと思います。
うる覚えですが、わたしは、それで知りました(笑)。
これも古本で購入してあった。
はい。忘れてました(笑)。
身辺雑記を毎回3頁にまとめています。
そこに、天野忠さんが登場する回がある。
それを、引用してみます。
「和田洋一・松田道雄・天野忠の鼎談『洛々春秋』にも、
『お茶漬けでも』が出てくる。
和田氏が、京都人は口と心の中が違うと言い出したのを受けて、
松田氏は『京都のルールというもの』があって、『お茶漬けでも』
といったときは、『もう、お帰りになった方がいいですよ』という
ことを婉曲にいっているわけだから、『結構です』といって
帰ればいい、直接的な意味はないんだからという。
これに対して、職人町育ちの天野さんは、
『うちらは、職人同士のつきあいで、そんなことなかったように、
おぼえてますね。「ごはん、どうどすか」というたら「おおきに」
いうて「ちょうど、メシどきやし、よばれまっさ」っていうのが
多かったでっせ』
というのである。
同業者仲間はいわば身内のようなもので、気心も知り合っていれば
家庭の内情も分かり合っていたらしいことをうかがわせる。
・・・」(p35)
「水菜のひねたん」と題する文にも登場します。
「・・鼎談『洛々春秋』のなかで、中京の職人町に生まれ育った
詩人の天野さんは、次にように語っている。
『うちらは、じじむさいですわ。うちらのものみせたら、
それこそおつけ物ひとつでもね、水菜のひねたんしかなかったり、
きのうの水菜と、お揚げさんと豆腐とたいた残りがある。
それくらいのものしかない』
・・・・
『水菜のひねた』漬物とか、『あらめとお揚げのたいたん』とか、
その語感からして京の庶民のつつましい台所を彷彿させるようで
ほほえましい。両方ともわたしは好きだし、そういう物を食べて
育ったのである。しかし、いくら好きだとはいえ、天野さんがいうように、
気をおかねばならない客にすすめたいとは思わない。」(p23)
話しはかわりますが、
私には好きな詩集が数冊あって、そのなかに
天野忠詩集『讃め歌抄』(編集工房ノア)があります。
それはそうと、
山田稔著「北園町九十三番地 天野忠さんのこと」。
そのはじめのほうに、こんな箇所がありました。
「私が天野忠の読売文学賞受賞を知るよりおよそ二年前の
1980年に天野忠・松田道雄・和田洋一の3名による鼎談
『洛々春秋』が京都新聞に連載されている。しかし当時、
私の友人の間で話題になった記憶はない。
その鼎談が単行本になったものを私は持っているが、
何時読んだかはっきりしない。つまり天野忠は私にとって
その程度の関心しかひかない存在だったようである。
いや、私だけでなく、詩壇のなかのごく一部の人を除いては、
誰も天野忠を知らなかったと言ってもかまわないだろう。
・・・文芸時評で丸谷才一はこう書いている。
『これほどの詩人を知らなかったことをわたしは恥じた。』
それでも詩人は無名でありつづける。
松田道雄の言葉を借りれば、みずからの詩的感覚を保持する
ために『有名になるのを拒否』していたのである。」
(p19)
はい。天野忠の詩がわかるための着眼点として、
『中京の職人町に生まれ育った詩人の天野さん』。
ここから、その輪郭がつかめるかもしれない(笑)。
思い浮かべるのは、詩人田村隆一さん。
大岡信の田村隆一追悼詩のなかの3行。
「大塚の花街に隣る料理屋育ちの
折目正しい日本語と べらんめえの啖呵の混ざる
あんたの口語は真似できそうで できなかった」
たしか、その田村隆一のエッセイで、
天野忠の詩を紹介していたことがあったと思います。
うる覚えですが、わたしは、それで知りました(笑)。