本棚から天野忠詩集「讃め歌抄」をとりだす。
うん。地名が出てくる詩があったので、
せっかくですから、引用。
「 絶望的 天野忠
西陣の
古い小さいお寺の門前に
いつでも掲示板が出ていて
お経の中の有難い文句や
偉い人の言葉などが書き出してある。
ある日
〇〇〇〇の言葉が出ていた。
なんでも
人は絶望的になったら
その絶望的な場所から歩み初めねばならん
というようなことであった。
隣りは
瓦屋根のずれた平家の
ちっぽけな機(はた)屋さんで
機屋さんの屋根にかぶさるように
お寺の物干しには
いろとりどりのおむつが
ずらりと五列も六列も並んで
はたはたはたと風に揺れていた。
機の音が
肩をたたくように聞えて
とても気もちの良い小春日和だった。 」
そういえば、私が京都を歩いていると、
ときどき、お寺の掲示板があったなあ。
そこでは、筆でもって書かれていた。
掲示板といえば、私の地方では、
教会が思い浮かび、地方のお寺では、
あまり掲示板と結びつかないのでした。
でも、ポスターみたいのが貼ってある
掲示板なら、そういえば、ありました。
京都を歩いていたとき、
瓦屋根のずれた家もあった。
でも、
「いろとりどりのおむつが
ずらりと五列も六列も並んで
はたはたはたと風に揺れていた。」
というのは、
現在の日本中では、
どこでも見かけないかも。
「おむつ」といえば、
鼎談「丁丁発止」(かもがわ出版)の
はじまりが、私に思い浮かびます。
梅棹忠夫・鶴見俊輔・河合隼雄の鼎談。
せっかく、思い浮かんだのですから、
引用しておかなきゃ(笑)。
鶴見】梅棹さんと初めてお会いしてから
ほとんど50年でしょうか。
1949年でしたからね。そのころ、
実によく会っていました。梅棹さんの話は
京大のキャンパスのなかでも本当に特異で、
取り上げる話題が全然ほかの人とちがうんですよ。
・・・・
これが鼎談のはじまりでした。
それで、つぎのページには
梅棹】 ・・・・鶴見さん、覚えておられますか?
敗戦後、私が意気揚々として・・・・。
鶴見】そうそう。びっくりしたのは、
引き揚げの上陸用舟艇で三井・三菱の支店長の細君たちが
喜々として赤ん坊のおしめや何かを干している風景。
梅棹】引き揚げ船の甲板に綱を張って、
それに干したおしめがまるで満艦飾でね。
鶴見】そのことに感激しているわけです。梅棹さんは、
日本にはもともと階級制に縛られる性格はあまりない
という考え方だった。だから、大商社の支店長なんかが
財産を奪われても元気でいられるのはそれだな、と。
梅棹】元気、元気でね。私は
『ああ、これで日本の将来は開けた』と思った。
それまですべて軍でしょう。・・・・
こんなおもしろくないことはないですよ。
それがいっぺんに解けてしまった。
『ああ、もうこれで日本は万々歳だ』と、
戦争に敗けるというのは、歴史上いくらでもあることで、
べつにしょげ返ることはないんですよ。
『これから日本の世紀が来るんだ。万々歳だ』と
言って帰ってきた。・・・・
そのころの日本は敗戦で打ちひしがれているときで、
『何を言うてるんや』という雰囲気だった。
日本に帰ってみたら、みんなシュンとしている。
鶴見】梅棹さんと主に話していたのは・・・
進々堂コーヒー店で、梅棹さんと話していると、
そこがまるで別天地のようなんです(笑)。
梅棹】毎日、われわれは進々堂にたむろして、
お茶を飲んで話していました。
鶴見】そのころは酒を飲まなかったんです。
コーヒー一杯で、ものすごく安上がり(笑)。
(p8~p11)
天野忠の題名につまずいて、
おむつ・おしめつながりで、
梅棹忠夫の「別天地」まで、
連想がひろがりました(笑)。
うん。地名が出てくる詩があったので、
せっかくですから、引用。
「 絶望的 天野忠
西陣の
古い小さいお寺の門前に
いつでも掲示板が出ていて
お経の中の有難い文句や
偉い人の言葉などが書き出してある。
ある日
〇〇〇〇の言葉が出ていた。
なんでも
人は絶望的になったら
その絶望的な場所から歩み初めねばならん
というようなことであった。
隣りは
瓦屋根のずれた平家の
ちっぽけな機(はた)屋さんで
機屋さんの屋根にかぶさるように
お寺の物干しには
いろとりどりのおむつが
ずらりと五列も六列も並んで
はたはたはたと風に揺れていた。
機の音が
肩をたたくように聞えて
とても気もちの良い小春日和だった。 」
そういえば、私が京都を歩いていると、
ときどき、お寺の掲示板があったなあ。
そこでは、筆でもって書かれていた。
掲示板といえば、私の地方では、
教会が思い浮かび、地方のお寺では、
あまり掲示板と結びつかないのでした。
でも、ポスターみたいのが貼ってある
掲示板なら、そういえば、ありました。
京都を歩いていたとき、
瓦屋根のずれた家もあった。
でも、
「いろとりどりのおむつが
ずらりと五列も六列も並んで
はたはたはたと風に揺れていた。」
というのは、
現在の日本中では、
どこでも見かけないかも。
「おむつ」といえば、
鼎談「丁丁発止」(かもがわ出版)の
はじまりが、私に思い浮かびます。
梅棹忠夫・鶴見俊輔・河合隼雄の鼎談。
せっかく、思い浮かんだのですから、
引用しておかなきゃ(笑)。
鶴見】梅棹さんと初めてお会いしてから
ほとんど50年でしょうか。
1949年でしたからね。そのころ、
実によく会っていました。梅棹さんの話は
京大のキャンパスのなかでも本当に特異で、
取り上げる話題が全然ほかの人とちがうんですよ。
・・・・
これが鼎談のはじまりでした。
それで、つぎのページには
梅棹】 ・・・・鶴見さん、覚えておられますか?
敗戦後、私が意気揚々として・・・・。
鶴見】そうそう。びっくりしたのは、
引き揚げの上陸用舟艇で三井・三菱の支店長の細君たちが
喜々として赤ん坊のおしめや何かを干している風景。
梅棹】引き揚げ船の甲板に綱を張って、
それに干したおしめがまるで満艦飾でね。
鶴見】そのことに感激しているわけです。梅棹さんは、
日本にはもともと階級制に縛られる性格はあまりない
という考え方だった。だから、大商社の支店長なんかが
財産を奪われても元気でいられるのはそれだな、と。
梅棹】元気、元気でね。私は
『ああ、これで日本の将来は開けた』と思った。
それまですべて軍でしょう。・・・・
こんなおもしろくないことはないですよ。
それがいっぺんに解けてしまった。
『ああ、もうこれで日本は万々歳だ』と、
戦争に敗けるというのは、歴史上いくらでもあることで、
べつにしょげ返ることはないんですよ。
『これから日本の世紀が来るんだ。万々歳だ』と
言って帰ってきた。・・・・
そのころの日本は敗戦で打ちひしがれているときで、
『何を言うてるんや』という雰囲気だった。
日本に帰ってみたら、みんなシュンとしている。
鶴見】梅棹さんと主に話していたのは・・・
進々堂コーヒー店で、梅棹さんと話していると、
そこがまるで別天地のようなんです(笑)。
梅棹】毎日、われわれは進々堂にたむろして、
お茶を飲んで話していました。
鶴見】そのころは酒を飲まなかったんです。
コーヒー一杯で、ものすごく安上がり(笑)。
(p8~p11)
天野忠の題名につまずいて、
おむつ・おしめつながりで、
梅棹忠夫の「別天地」まで、
連想がひろがりました(笑)。