和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

「論壇時評」を読む人。

2019-09-01 | 本棚並べ
家では昔から、新聞といえば朝日新聞でした。
自分で新聞を購読するようになって、
読売・毎日・産経と、時には3紙同時にとったり
したこともありますが、どうも、
朝日新聞を読んでいると、鬱憤が溜まる。
うん。最初は、そのウップンに自身気づかずに、
いたのですが、朝日新聞を購読しなくなったら、
そのウップンも消えておりました。
なあ~んだ。でした。

それはそうと、雑誌「正論」。
その雑誌の最後の方に、「メディア裏通信簿」という
座談会が、最近めっぽう面白い。

メンバーは匿名で、教授・先生・女史・編集者の4名。
8月~10月号まで続けて読むとたのしめます。

その一人「教授」の発言に、焦点をあてて引用。

まずは、8月号から

「朝日は毎月最終木曜日掲載の論壇時評を刷新しました。
5月30日の朝刊にはジャーナリスト、津田大介氏が担当・・・
・・津田氏の文章は相変わらずの『敵』か『味方』かの
単純二元論に過ぎない。とても内容的に貧相です。・・・
出来上がった紙面を見る限り、無残なものです。
・・・
津田氏には少し荷が重い気がしますね。
・・・
朝日の政治面などちっとも面白くないですよ。」

はい。『教授』の発言を適宜引用しております。
次は、9月号。ここに朝日論壇時評の箇所が
あらためて、つづいておりました。

先生】教授は前回、津田には『荷が重い』って言っていたけど、
段々その通りになってきたね。

編集者】これ以上的確な指摘はなかったですよ。『荷が重い』って。

先生】津田はフェイスブックで詳しく反論していたらしいぞ。

教授】え? 論壇時評という自分の土俵には書かずに、
自分のフェイスブックで反論?
それって論壇のルールに照らしてどうなんでしょうか。
ダメでしょう。
 ・・・・
『百田尚樹許せない』とはじめから決めつけているから
こんなことになるのだと思う。二回目の論壇時評(6月27日)
も全く冴えがなくつまらなかったですね。
二回目は引きこもりを取り扱っていて、
あれこれ述べてはいますが、
結局何が言いたいのかわからないのです。
 ・・・・
ゆとり教育が華やかなころ、
文部官僚だった寺脇研氏が『不登校こそ新しい生き方だ』
と言ったことがありました。
『不登校児は生涯学習を実践している』という理屈でしたが、
何だかそれを彷彿とさせます。
果たして問題の深刻さを本当に受け止めているのかな、
と感じたことを覚えています。
この二回目の紙面にも似たものを感じます。
腰を据えて読んではみたのですが、
全然心に刺さらないのです。
 ・・・・・
自己矛盾ですね。少し荷が重いという話ではなく、
かなり荷が重いのではないかと思います。


はい。そして10月号となります。
いよいよ
10月号は「あいちトリエンナーレ」での
芸術監督の津田大介の話題からとなります。


うん。引用してもいいのですが、発売中なので
本屋で立ち読みもできます(笑)。
ちなみに、
10月号での、教授の最初の言葉はこうでした。


教授】津田さんに注目しておいて良かったですね。
何をするにも何か起きるだろうなあ、
という予感がありましたからね。




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学問をする若い諸君に。

2019-09-01 | 本棚並べ
桑原武夫の「人文科学における共同研究」。
その最後から3頁ほどのところに、
こんな箇所があり、印象に残ります。

「私どものやりました共同研究の
内容よりも、そのやり方について、
いろいろ批判のあることはよく承知しております。

たとえば、研究をみな楽しそうにやっているという。
これが批判になるのはおかしいのですが、日本の学界には
禁欲主義みたいなものがあって、学問とはつらいこととみつけたり、
ということでないといけないような空気がありますが、
私はいやいややる学問にろくなものなしと考えております。

それから、サロン的である、おしゃべりにすぎない、
という批判がある。なんとかにすぎないという表現は、
傍観者的な悪い表現だと私は思っておりますが、
毎週金曜日のくるのが待ちどおしかったといった人がある。
これはちっとも恥ずかしいことじゃありません。

つぎに、共同研究といっても耳学問の集大成にすぎない、
という批判があります。これは問題の根本にふれている。

間接的知識の否定というのは立派な態度のようですが、
あらゆることを現地へ行って自分の眼でたしかめ、
レジュメは一切信用せずに原典の最後のページまで
読みおわらなければ一切発言しない、というのは
宗教的態度であるかもしれませんが、
近代の学問の方法ではありません。

私はこれから学問をする若い諸君には、
耳学問の練習を早くからやらなければいけないと
いつも言っているのです。

耳学問で大よそをつかみうるためには、
ちょっと頭の働かせ方を研究しておかねばだめなので、
なんでも聞けばわかるなどと思っているのは、
よほど頭が悪いのです。」


 はい。ここで引用をおえると、
 中途半端で、もやもやしてしまいます。
 う~ん。ここは最後まで引用しないとね(笑)。
 以下につづけます。


「学問、とくに人文科学は、人間の生活の
常識をふまえるものですけれども、しかも
究極において常識を反転せしめる、
常識の反措定を出すものだろうと思うのです。・・・

そういたしますと、さきほど申しましたいろいろの批判、
サロン的であるとか、遊びの要素があるとか、耳学問だとか、
非専門的だとか、こういうことは学界用語ではマイナス記号、
けなし言葉ですが、私は、これらのマイナスをそろえることによって、
ツー・テン・ジャックのそれのように、
全部をプラスに転化しうるのでないかと思っております。

学問研究は、いうまでもなく学説やイデオロギーや、
重要なことがたくさんありますけれども、それらを
生み出してゆく諸人間関係というものが
下部に、あるいは基礎としてあって無視できない。
そういうことを言うと、崇高な学問を人間世界に
引下ろすように思う人があるかもしれませんけれども、
それは、学問を雲の中にあることのように思っているからであって、
学問というものは、もともと人間の中から出てきたものである。

ただ学問は、人間世界から出てくるけれども、どこかでそれを離れる。
デタッチメントということがなければ、学問にならない。
しかし、離れるということは、また戻ってくるということを
前提にしなければならない。不即不離です。

そうすると、離れたところで学説はできるけれども、
その学説を生み出すために切磋琢磨していく人間、
その人間のグループの組み方は、きわめて大切な問題となるわけで、
秀才がたくさん集まればよろしいというわけのものではありません。

もしあの仲の悪いパスツールとファーブル、ゲーテとベートーヴェン
をいっしょに仕事をさせたらどうなるでしょうか。
そういう点を無視しては、おそらく共同研究の成果は
あがらないのじゃないかと思います。

はじめにおことわりしたように、あまり理論的でない、
まとまりのない話になりましたが、
思い出話の一端としてお聞き捨てくださればしあわせです。
どうもありがとうございました。」

(1968年3月21日、京都大学での講演速記を修正加筆したもの)


はい。その最後を引用してしまいました。
私は、「若くない諸君」のひとりですが、
つい、引用させていただきました。


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