和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

つつましやかな。ささやかな。

2022-01-06 | 産経新聞
産経新聞1月4日の対談は、
インタビューとは違い、新春対談のように読みました。
平川祐弘氏がまずこう語っておりました。
「私はこの機会に若い方とお話ししたいと思いました。」
こうして、91歳になる平川氏が51歳の今泉宣子さんを指定しての対談
になっております。読みはじめると、どうやら師弟対談なのだとわかります。

今泉さんが、語るのはまず
「私は学生のころからボンヤリしていて比較日本文化が
 何なのかよく分からいないまま卒業しました。」
とありまして、すこしあとには
「平川先生の著作の中で私に印象に残っており、今も大切に
しているのが『西欧の衝撃と日本』(講談社学術文庫)です。」
とあるのでした。

はい。新春対談に文庫がとりあげられている。
では、とさっそく文庫のなかから引用することに。
『西欧の衝撃と日本』の最終章は第10章
「クローデルの天皇観 日本のこころを訪れる眼」でした。
そこに明治神宮への記述があります。
はい。そこを引用してゆくことに。

「都の中にありながら山野の中にあるがごとき心地する
明治神宮の鬱蒼とした森ほど東京に住んで嬉しい場所はない。
・・・・この森は、人工でありながら、人工の感を与えない。
いまの東京の小鳥や老若男女の心のやすらぎの場でもある。」
(p443)

「晩秋など、かしわ手をうつ人の足もとに紅葉が散っている
こともあるが、クローデルに日本国民の心を感じさせたのは、
その社頭に木の葉のように散っていた銅貨や銀貨であった。

『それはそれだけの数のつつましやかな祈りやささやかな願い
 事のあらわれなのである。人間という森の中から風にのって
 ここまで運ばれてきた幾枚かの木の葉なのである』

クローデルもかつて愛唱したヴェルレーヌの詩には、
秋の日のヴィオロンのためいきや過ぎし日の思い出とともに、
『うらぶれてここかしこさだめなくとび散らふ落葉』
としての人間存在が虚無的な淋しさをもって歌われていた。
それがパリの公園の物悲しい憂愁であった。

しかしこの東京の明治神宮で、
お賽銭をあげて祈る老若男女には信(しん)が感じられた。
その人たちのつつましやかな願い事や祈りを感ずる
カトリック信者のクローデル大使の言葉は温い。
森とか風とか木の葉とかいう大地のエレメントに結びついた
イメージも、農民の国フランスの農村の出身のクローデルに
ふさわしい。・・・」(p444)

ちなみに、『西欧の衝撃と日本』は初版が昭和49年でした。
この第10章のなかに、平川氏はこう書き込んでおりました。

「私は畏敬の念の奴隷となった人の狂信を愚かしく思うが、それと同時に
なにものにも畏敬の念を持ちえない人の猜疑心を愚かしく思う。
過度の猜疑心は軽信(けいしん)の一形式にしか過ぎない。」(p446)


もどって、この新春対談は、今泉さんが平川氏へ
今年の秋のシンポジウムへの参加出席をお願いして終わっておりました。
その最後の箇所も引用しておくことに。

平川】・・・・戦後のインテリは『日本に生まれて悪かった』
 みたいなことばかり言っていたから、私はあえて
『日本に生まれて まあよかった』(新潮新書)を書いたのです。

頭の不自由な、いつまでたっても変わらない、
変われない旧弊な左翼の方や、似たように頭の固い右翼の方には
嫌われるかもしれないが、シンポジウムではそんな話をしたいと
思います。

今泉】 楽しみにしています。
    本日はありがとうございました。










コメント (5)
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