本を3冊。
① 岩波少年文庫「イソップのお話」河野与一編訳。
② ちくま学芸文庫「荘子 内篇」福永光司/興膳宏訳
③ 阪田寛夫著「まどさん」
①
「『イソップのお話』を、いままで一つも読んだことがないという人は、
めったにいないでしょう。私たちはごく小さい時から、絵本や教科書
などを通じて『イソップのお話』に親しんでいます。」
はい。河野与一さんは、「あとがき」をこうはじめておりました。
うん。あとがきから、ここも引用してみます。
「 イソップの名が歴史に残っている最初の記述は、
ヘロドトスの『歴史』の第二巻の中で、それによると、
㈠ ギリシャにイソップという人がいて、寓話を作ったり
話したりして名声を得ていたこと。
㈡ 有名な女奴隷のロドビスといっしょに、サモスの人
イアドモーンの奴隷であったらしいこと。
㈢ デルフォイの人々が、イソップを殺し、
それをのちになってつぐなうために、イソップの血の
代償を受ける人を探したところ、イアドモーンの孫が
来て受けとっていったことが記録されているのです。 」
②「ところで、荘子の生きた西暦前4世紀の中国とはいかなる時代か。
それは古代中国の歴史において、戦国時代とよばれる、闘争と殺戮
の血なまぐさい時代であった。
戦国時代の歴史が7つの大国・・・を中心として展開するが、
これらの大国にとって最大の関心は、『国を富ます』ことであり、
『兵を強くする』ことであり、そのための権力の狡知であった。
内においては絶え間なき苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)が、
外においては不断の戦争侵略が、人間の生活を闘争と殺戮のなかで
凌辱し、飢餓と流亡のなかで翻弄した。
『今の世は殊死の者(刑死者)枕を並べ、桁楊の者(罪人)道路にひしめき』
『殺され死せし者は沢を以て量る』と懼れさせ、
『人間が生きるとは、憂(かな)しむことだ』
( いずれも「荘子」のなかに見える言葉 )
と歎かせた不安と絶望の社会が、戦国時代なのである。
荘子が生きたのは、このような不安と絶望にみたされた時代であった。
彼の哲学は、このような不安と絶望の超克として始まるのである。 」
( p289 )
「 彼らにとって人生とは、
そのまま理想につながる直線的なものではなく、
遠まわりし、後ずさりし、傾き、また覆る曲線的なものであった。
彼らにとって、幸福とは裏返された不幸であり
喜びとは、くつがえされた悲しみであった。
そこではもはや、人間が『喪(うしな)う』ことを
考えることなしには『得る』ことが考えられず、
『亡びる』ことを考えることなしには、
『存(ながら)える』ことが考えられなかった。
『死ぬ』ことを考えることなしには
『生きる』ことが考えられず、
『無い』ことを考えることなしには
『有る』ことが考えられなかった。
・・・・
進むことのいさぎよさよりも
退くことの強靭さに刮目(かつもく)した。
・・・・
荘周が生きたのは、このような宋の文化の伝統のなかであった。
彼の哲学は、このような暗い谷間の叡智を、
その精神的な風土として成育したと思われるのである。 」(p291)
③ イソップと荘子のつぎに阪田寛夫著「まどさん」。
戦争中の、台湾でのまどさんについて知る事ができます。
最後は、まどさんの詩をあらためて引用
もう すんだとすれば まどみちお
もうすんだとすれば これからなのだ
あんらくなことが 苦しいのだ
暗いからこそ 明るいのだ
なんにも無いから すべてが有るのだ
見ているのは 見ていないのだ
分かっているのは 分かっていないのだ
押されているので 押しているのだ
落ちていきながら 昇っていくのだ
遅れすぎて 進んでいるのだ
一緒にいるときは ひとりぼっちなのだ
やかましいから 静かなのだ
黙っている方が しゃべっているのだ
笑っているだけ 泣いているのだ
ほめていたら けなしているのだ
うそつきは まあ正直者だ
おくびょう者ほど 勇ましいのだ
利口(りそう)にかぎって バカなのだ
生まれてくることは 死んでいくことだ
なんでもないことが 大変なことなのだ
うん。朝のセミが鳴いている。
コメントありがとうございます。
この詩を読みなおすたび、
気になる一行が変ります。
まどさんの、オマジナイ。