和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

島も人も。

2007-03-06 | Weblog
樋口裕一著「発信力」(文春新書)というのが出たそうで、「本の話」3月号(文藝春秋・年間購読)にご自身が紹介文を2ページにわたって書いておりました。
そこに「日本人は受信を優れたものとみなし、発信を恥かしいこと、劣ったこととみなす文化を築いてきた。外国から高い文化を受信し、それを深く理解できるのが優れた人間だった。めったに発信しないにもかかわらず、時に多くのものを受信していることをさりげなく示せるのが徳のある人間だった。難しい文章を理解できるのが優秀な人間で、自分の意見を口にし、自己主張する人間は一段劣った人間とされた。わかりやすい文書を書くことはさして評価されなかった。発信の社会で生きるには、そのような価値観を改める必要がある。・・それを改めなければ、いつまでも発信力をつけられない。」(p15)

ああ、そうか。と思いながら、読んでおりました。
そのうちに、ボンヤリと、最近の雑然とした話題を結びつけたくなってきたのです。
たとえば、こうでした。
「栗林忠道 硫黄島からの手紙」(文藝春秋)と映画「硫黄島からの手紙」がありました(映画は残念見てない)。どちらも、私にとっては、手紙を受けとるという、受動的な立場である。そんな仮説を立ててみたくなるのです。その手紙を読んで返事を書くというのが、発信力だとすると。それでは、私はいつ発信するのか?

むろんのこと、さまざまな発信があると思うのですが、
ここでは、ちょいと脇道にそれて、印象深いこんな発信力を、まず思い描いてみます。
それは、毎日新聞書評欄の「好きなもの」というコーナーで、吉田秀和さんが書いておりました。
「2000年名ピアニスト、フリードリヒ・グルダの追悼を書いたら、ウィーンに住む未亡人から手紙が来た。長文なのでその一部を引用すると『あなたの記事を読み、遠い日本でよくここまで洞察していられると、とても新鮮な印象を受けました。日本その他の国々の、大抵は音楽学的な表面的でごく一般的な内容か、あるいは個人的印象か想い出話、彼を理解するにほど遠いものが多かった中で、こういう感覚を持った方がいらっしゃるということに大変うれしくなりました。色々と書く人によって勝手に作られているグルダ像というのがほとんどの中で、本当の部分をわかって下さる方がいらっしゃってホッとしました・・・』自慢話になって、ごめん。」(毎日新聞2007年1月7日)

話題を「硫黄島からの手紙」へと戻します。
産経新聞2007年2月27日に、ワシントンから古森義久氏が記事を送ってきておりました。
それは、米政治評論家ジョージ・ウィル氏の寄稿論文をとりあげて紹介していたのです。題して「硫黄島の共感の教訓」。では、古森氏の紹介記事から
「同論文は、第二次大戦では米国は東京大空襲で一気に日本側の民間人8万3000人を殺し、広島へ原爆投下では一瞬にして8万人を殺したように、日本人一般への人道上の配慮はまったくなく、米側では日本民族全体の絶滅さえ提案されていた、と述べている。同論文によると、米欧で制作された英語使用の映画では第二次大戦に関する作品は合計600以上を数えるが、そのうち『日本軍将兵の人間性』を少しでも認めたのは『戦場にかける橋』など4本に過ぎないという。同論文はしかし、『硫黄島からの手紙』が今回、アカデミー賞の作品賞などの最終候補作に選ばれたことは米側で社会一般に『社会の文明や道義的な憤慨の成果として敵(日本側)の将兵の苦境にも共感を示すようになった』ことの表れだ、と述べている。そのうえで同論文は映画の主人公の栗林忠道中将が山本五十六元帥と並んで日本軍有数の知米派だったことや硫黄島で発見された日本軍将兵の手紙の数々はみな死を覚悟し、『その哀感は彼らの人間性を示していた』と書き・・
ウィル氏のこのコラム論文は冒頭で19世紀の米西戦争でスペインの軍艦を沈めた米艦の艦長が部下に『哀れな敵が死につつあるのを喜ぶな』と述べた言葉を紹介し、末尾でいまの米国社会がこの艦長の『繊細さ』に近づきつつある、と称賛した。」

こうして、古森氏は最後に
「戦争での残虐行為などを相互の行動ととらえて、ともに人間性を認識しあおうというウィル氏の議論は、いま米国議会の下院に提出されている『慰安婦』非難決議案に示される日本への一方的糾弾とは対照的に異なるといえる。」と、しめくくっております。


古森氏の論文紹介記事は、貴重な米国の言論を切り取って鮮やかな印象をうけます。その意見を取り上げて、日本へと発信している古森氏の手腕の鮮やかさを思うのでした。

ここで、最初の樋口裕一氏の言葉にもどりますと、
「ところが、日本人は今もあまりに発信力を苦手としている。人前で話すこともできず、文章を書くこともできない。若者に文章を書かせると、それはそれはひどいものが出来上がる。会議でもなるべく発言せずにすまそうと考える。・・・」とありました。
こうした日本人に、すんなりとした発信力を養うには、どういう手順が必要なのでしょうね。
自分自身も苦手な発信力。それをどうやって身につけていけばいいのかと、いまされながら思い描くのです。
そういう風に思ってみると、私に思い浮かぶのは「司馬遼太郎が考えたこと 15」(新潮社)にある「二十二歳の自分への手紙」と題された8行ほどの文でした。短いのでほとんど引用してみます。

「与えられた題の『私にとっての文学』は、とても卒然と語れそうにありません。ことさらに簡単に申しますと、私は二十二歳の自分にずっと手紙を書きつづけてきたような気がします。昭和二十年八月七日は私の二十二歳の誕生日で、むろん祝いませんでした。それから八日後に、日本は降伏しました。大正や明治の人々はこんなおろかだったろうか、あるいはそれ以前の人々は、という疑問が、私をとらえ、しかもこの自問にひとことも答えられませんでした。昭和四十年前後から、この二十二歳の私自身に手紙を書きはじめました。私の作品はそのことに尽きます。・・・」

この言葉がある「司馬遼太郎が考えたこと 15 」には
「山片蟠桃賞の十年」という文もはいっておりました。
それは「講演というより雑談のつもりでしゃべらせていただきます。」と始まっておりまして、サイデンスティッカーさんの受賞を祝う言葉が語られております。その途中にこんな箇所がありました。
「サイデンスティッカー博士の履歴を見ておりますと、太平洋戦争が博士を日本文学に近づけたわけで・・太平洋戦争というものは双方に多大の犠牲をうみましたけれども、サイデンスティッカー博士とドナルド・キーン博士を得ただけでつぐなえるのではないかと思うくらいであります。サイデンスティッカーさんは硫黄島作戦に従軍されました。私も、当時の志望としてはそこにいたはずでした。・・・・
私は残念なことに硫黄島にゆけず、そこでサイデンスティッカー博士に会うことができずじまいだったのです。もし会っていたら私はここにはいないと思いますけれども。そういうわけで、太平洋戦争が、おろかな戦争およびその戦争の基礎になった昭和の歴史が、これはもうほんとうにおろかなものでありましたけれども、サイデンスティッカーさんとドナルド・キーンさんをうんだというのはこれはまことにありがたい、そのように思っております。」


つぎはぎの引用を並べてきました。
つぎは、島ということで思い浮かんだこと。

河合隼雄著「明恵 夢を生きる」(京都松柏社・講談社+α文庫)のなかに
「島への手紙」という箇所がありました。

「明恵にとってはこのような自然に包まれて在ること、そのことが宗教的体験であったと思われる。日本人である限り、自然への親近感を持っているものであるが、彼の場合はその度合いが極めて深く、・・それが彼の信奉する華厳の教えとも結びついているところが特徴的なのである。明恵が月夜の晩に弟子と共に船に乗り、紀州の苅磨(かるま)の嶋という島へ渡ろうとしたときの様子が『行状』に語られている。・・自然に接し、自然の心を知ることができたときは、今更別に経典を読む必要もない、というのである。明恵の自然にたいする態度が、ここに端的に語られている。
この苅磨の嶋に明恵は一通の手紙を書いた。彼にとっては、島も人も同等なのである。面白いのは、この素晴らしい手紙を手にした弟子が、これをどこに持っていったらいいかと尋ねると、明恵は『苅磨の嶋に行き、梅尾(とがのお)の明恵房からの手紙だと高らかに呼んで打ち捨てて帰って来なさい』と事もなげに答えていることである。・・」
こうして次に、明恵が書いたという「島への手紙」の内容が紹介されているのでした。


「硫黄島からの手紙」を読んで、
「硫黄島への手紙」を、いつか書きたいと、そんなことを私は思ったわけです。
たとえ「人への手紙」じゃなくとも、「島への手紙」としてなら書けるのじゃないか。
と、なぜか思ったわけです。
それが果たせなくても、せめて思ったことを発信しちゃおうと、こうしてブログに書いたというわけです。
これがいつか、次のステップへとつながることを、まるで、種が発芽するかどうかと期待するように思いえがいてみるのでした。

ちなみに、新聞の紹介文を読むと、映画「硫黄島からの手紙」は
「2006年、硫黄島の地中から数百通もの大量の手紙が見つかる場面から始まる。
61年前、この激戦地で戦った男たちが家族にあてて書き残したものだった・・・。」
とありました。島から手紙が発見される、というイメージから、さまざまに連想を呼びさまされた気がしたのでした。


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4 コメント

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Unknown ()
2007-03-13 15:03:53
とにかく慰安婦問題については、小林よしのり著「戦争論2」の「総括・従軍慰安婦」を読んでみてほしい。
あらゆる関連本の中で一番良い。
この問題の全容も把握できる。
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いざ知らず。 (和田浦海岸)
2007-03-15 16:59:32
(あ)さん。はじめてのコメントありがとうございます。小林よしのりですか。申しわけありませんが、今は読む気がおこりません。それよりも、他の新聞・雑誌はいざ知らず。
産経新聞の現在は、アメリカでの従軍慰安婦問題をとりあげて、まるで現地で新聞をひろげて読んでいるような錯覚を抱かせます。現在進行形の問題を、まるで脈搏を計っているような按配で知ることができ、これは読み得。古森義久氏の発信力が鮮やかで、これを読まなきゃもったいない。そう思わせる現場感覚であふれており。
私は小林よしのりよりも、今は古森義久をあらてめて読んでみたいと思っているところなのでした。
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島への手紙 (北祭)
2007-03-15 23:29:11
和田浦海岸さん、こんにちは。
発信力への一考察、興味深いものでした。
とくに、島への手紙、という発想が新鮮です。

小西甚一さんは『日本文藝史』の導入部で日本文藝の特色を次の三つの点をあげておられます。
一つに、作品が外形の面で短章的であること、二つに、様々な面で対立性が現れないこと、三つに、作調における主情性と内向性。
もとより日本人は悲痛、悲歎、悲傷などといった哀悼へ傾倒しやすく、ために、日本文藝の作調が全般として内向的な性質をもつことに帰することになるということです。しぜん、日本文藝の優美さは表面から消えさり、「さび」「ひえ」「わび」「渋さ」を美として感じる文藝へとつながってゆく。
感じたとおりに直接に表出することは、ヤマト文藝を生み出してきた日本人の心情にはそぐわないものだったのですね。現代において発信力が弱いのはもっともで、これは根がとてつもなく深いようです。

ぼくは、日本の伝統や文藝が大好きなので、日本人に残っているその心情をすててほしくはありません。そこで、島への手紙です。情をもって人に物をいうのは、対立を生むのでどうしたって日本人には無理な相談。それなら、智をもって整理した正しい情報を、島へ向って発信してみてはどうだろう。古森義久さんはワシントンから、日本へと発信しておられます。そして同時に、かの島々(国々)へと手紙を送り続けているかのようです。
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北祭さんへ。 (和田浦海岸)
2007-03-17 08:11:44
こんにちは。北祭さん。
丁寧なコメントをありがとうございます。
そうだ。北祭さんへの手紙を書くつもりで、このブログを書いてゆけばすんなり続くかもしれない。とコメントを読みながら思っておりました。北祭さんの本棚には「日本文藝史」が並んでいるのだろうなあ。などと思っているわけです。私はというと、たしか向井敏の文で、日本文藝史の4巻目のみ買ったのですが、そのままにホコリをかぶったままになっている始末。キーンさんの「日本文学の歴史」は全18巻で、近世篇までが半分の9巻目まで、その9冊が6000円で買えたので、手許にあります。写真入で読みやすい構成になっておりますので、これならパラパラと読めそうです。なんとか、このブログで北祭さんへの手紙を書くつもりで書いてゆきたいと思います(笑)。では、これからもよろしくお願いします。
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