『門前の小僧習わぬ経を読む』
という、ことわざがあるのですが、
そういえばここに『読む』とある。
坊さんが、声出して経を読みます。
その声を聞き小僧が覚えてしまう。
それはそうと、
安い古本買いの私はといえば、
古本の最初と最後だけを読み、
本文全体を、ちっとも習わぬ、
門前の小僧にたとえたくなる。
そそくさと、古本を買っては、
パラリとひらいて、次の本へ。
『まえがき』を読み私は満足。
昨日読んだ『まえがき』には、
『・・・・死人を仏という。
これもまたテレビの捕物番組をみていて、
ふしぎにおもう人はかえって少ないだろう。
ふしぎにおもう人はかえって少ないだろう。
言葉だけといえばそれまでだが、言葉があれば信仰がある。 』
ここに、『死人を仏という。・・言葉があれば信仰がある。』
という箇所が、本文を習わない癖して、思い浮かんでくる。
さてっと、今日になって、本棚からとりだしたのは、
天岫接三著「白隠禅師坐禅和讃」(仏教年鑑社・昭和9年)。
こちらは、2012年に古本でネット「紫式部」から注文して
そのままになっていたものです。
大阪府和泉市緑ヶ丘の樹心堂より、300円+ゆうメール分。
はじまりを見ると、ラジオの講話を本にしたようです。
うん。わかりやすい。
まえに持っておられた方が、丁寧に読んだようです。
鉛筆で線をひき、欄外に書き込みがある。赤色鉛筆
でも線がひかれ、黒と赤の線引きが要所要所にあり、
読み込んでいかれた様子がうかがえ参考になります。
それはそうと、
この本の第一講の和讃は
『 衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし 』
講話はというと、こうはじまります。
『この坐禅和讃は22行44句よりなって居て、
極めて平易で簡単な和讃であります。
白隠禅師以前のわが国の禅はとかく支那式であって、
支那風を免れなかったものを、白隠禅師に至って
初めて日本のものとして、完全に日本化され、
また従来の禅は何となく貴族禅の観があったのを、
白隠禅師に至ってこれを大衆化し民衆化して、
禅を普遍的の立場へ進められたのであります。
天龍寺の夢想国師が御幾代かの帝王の師として、
貴族禅を代表して居られるとすれば、
白隠禅師は平民禅の代表者であったと見て
差支へ無いように思われます。 』(p23~24)
はい。白隠禅師の
『衆生ほんらい佛なり・・・衆生の外に佛なし』
という和讃のはじまりから、
この和讃からならば、テレビの捕物番組でのセリフ
『死人を佛という』までが、自然とむすびつきます。
ときどきですが、韓国・中国からのニュースで、墓をあばいて、
死人を掘り出し、鞭打つという事件が報道される時があります。
白隠禅師がおられた日本では、まずは嫌悪感がさきにたちます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます