森浩一著「京都の歴史を足元からさぐる」(学生社)
の北野・紫野・洛中の巻をパラパラめくっていたら、
「大報恩寺・千本釈迦堂」の箇所が気になりました。
まずは、地理の引用から(笑)
「大報恩寺は千本通と七本松通の中間にあって、
周囲を民家ですっかり囲まれているが、もとは
東が千本通までの大寺だったと伝えられる。」
うん。この記述が鮮やかなので、もう少し引用(笑)
「千本釈迦堂の名で親しまれているが、
北野釈迦堂ともよばれるように北野の地に含まれている。
北野天満宮の東約400メートルのところにある。
引接寺の南にほど近いところでもある。
応仁の乱の主戦場の西陣に近いのに、
安貞元年(1227)年に建立された本堂(いわゆる千本釈迦堂)
が今日まで伝えられたのは、奇跡といってよかろう。
この寺も応仁の乱の兵火によって他の堂は失われたが、
幸い釈迦堂だけがのこったのである。
この建物は東寺の校倉(あぜくら)を別にすると、
旧京都市域での最古の建造物でもある。
ぼくは何度もこの建物を見るために訪れていて、
重厚さとともに気品のある建物を眺めていると気持ちが落ち着く。」
(p148~149)
はい、まだ続くのですが、これくらいにして、
本題へと近づいてゆきます(笑)。
「いつもは扉が閉ざされているが、
ぼくが訪れた12月8日の大根焚(だいこだき)の日は
釈迦が悟りを開いた成道会(じょうどうえ)でもあったので、
厨子の扉は開けていて、像のお顔を拝むことができた。
・・・・・
ぼくはお堂の外陣(げじん)に座って、
しばらく釈迦如来像を凝視していた。
すると特別祈祷を頼んだ人たちが
やってきて、僧が読経を始めた。
それにあわせて若い僧が打つ太鼓の音は
なかなか高音で、リズム感もよく、
ジャズバンドが顔負けするほど元気があった。
お寺でこれほど威勢のよい読経に
接したのは初めてであり、仏教音楽についての
認識を一つもつことになった。」
(p150)
はい。このあとに森浩一さんは
「先日、林屋辰三郎氏の対談集『聚楽の夜咄』を読んだ」
とあったのでした。そこに語られている司馬さんの
指摘を確認したくなり、
ネットで『聚楽の夜咄』を注文したのでした。
さて、森浩一さんが引用している前後を
じかに対談集で読めることができました。
その対談集からの引用をして、おわります。
司馬】 室町時代、叡山の坊さんが坂本で
声明(しょうみょう)を勉強している所に、
京都の物好きの
声がよくて耳の良い人が習いに行って、
京都の町で町の者に教える。
そうすると歌謡のもとになる
というのは本当ですか。
林屋】 これは芸能史の大発見ですね(笑)。
司馬】 僕はなんとなく日本の民謡は声明から
始まっているような感じがするんですが。
林屋】 そうですね。
後白河さんの『梁塵秘抄』がやっぱり原点でしょうね。
これもやはり声明から入っていますしね。
またいろんな世俗の歌も入っていますし、出てきます。
まあ、近いところでは『閑吟集(かんぎんしゅう)』になりますけど、
『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』の『このごろ京に流行るもの・・・』
でしょうね。言い方でいろんな社会風刺をしてるでしょう。
おそらくもとは、声明的な歌の言い方から来たものなんでしょうね。
声明については、まあもうその頃には
『聞くに可笑しき経読みは・・・・』という、
やっぱり『梁塵秘抄』の歌の言いかけがありますが、
聞くに可笑しき経読みちゅうんですから、
お経を読んでいるのを聞いていると
誠に妙(たえ)なるものがあるというわけですな。
・・・・・・(p20)
うん。「門前の小僧習わぬ経を読む」から
一歩も二歩もすすむと、
「京都の物好きの声がよく耳の良い人が習いに行って」
ということになるのでしょうか?
うん。司馬さんの指摘は、鮮やかな場面を思い浮かべます。
はい。京都の音が、深堀りされてゆきます(笑)。
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