今はどうなのでしょう?
私の小学生の頃は『書き初め』は当然のようにありました。
中学では、ちょこっとあったかなあ。
大村はまの国語通信を読んでいて、思ったのですが、
私の『書き初め』は、書く言葉のお手本があって指定されていた。
そこが気になり書いてみます(昨日のブログの続きになります)。
まずはここから。
苅谷夏子さんは、大村はまの授業をこう語っておりました。
「学校という場は、すでにできあがった知識体系を、
疑う余地も残さず、あたりまえの顔をして教えてしまう。
立派な知識のお城を前に、生徒は委縮した
未熟な存在にならざるをえないところがある。
ところが、この『ことば』という平易な、しかし
やっかいなことばの分類をしてみたことで、私は
しゃんと背筋が伸びた気がしたわけだ。
過去に知的遺産を築いた人々と同等の資格を持って、
堂々と勉強を進める楽しさを教えられたのかもしれない。
実際、大村国語教室の私たちは、
生意気とも思えるほど一人前の
『学ぶ人たち』だったのではなかろうか。 」
( p48 「教えることの復権」ちくま新書 )
『書き初め』で、自分が書く言葉を、自分で選ぶところからはじまる。
うん。この引用は途中からで、わかりずらい箇所もありますが、
まあいいか、つぎを続けます。
苅谷夏子さんは、1956年生まれ。
13歳の二学期でした。
こうあります。
「私は中学生になった。相変わらず理数系のほうが肌に合うと思っていた。
一年生の夏休み、父の転勤に伴い石川県金沢市から東京都大田区へと
引っ越して、区立石川台中学校に転入することになる。
夏休み明けのじりじりと暑い日、私は国語教室として使われていた
図書館で、当時63歳だった国語教師大村はまに出会った。」
( p18~19 同上 )
断捨離されずに、大村はまさんの、その頃の「国語教室通信」は残され、
しかも手書きのままの資料が、大村はま国語教室資料篇②として読める。
苅谷夏子さんは、昭和44(1969)年の二学期に大村はまと出会います。
ちなみに、この昭和44年(1969)7月21日に出版された本はといえば、
梅棹忠夫著「知的生産の技術」(岩波新書)がある。
すこし前の、1965年に
梅棹忠夫は、電通の依頼でセミナーの講師をしております。
その演題が『知的生産の技術』でした。こうあります。
「わたしの演題は、『知的生産の技術』ということであった。
わたしの著書『知的生産の技術』が刊行されたのは1969年のことであるから
このときはまだ姿をあらわしていない。しかし、わたしはすでに、
1965年の4月から岩波書店の雑誌『図書』に
『知的生産の技術について』という連載記事を
断続的に発表しはじめていたのである。
それに電通の担当者が注目したのであろう。・・・」
( p177 「梅棹忠夫著作集」第11巻 )
はい。岩波の雑誌『図書』と、『知的生産の技術』というキーワードが
大村はまの国語教室通信を、パラパラとめくっていると出てきました。
昭和46年10月9日の国語教室通信のはじまりに
「岩波の図書10月号に、『本と子どもと図書館と』という題で
『いぬい・とみこ』さんの文章がのっています。読みましたか。・・」
はい。大村はまさんが、雑誌『図書』を注目していたとわかる箇所です。
同じ年の46年10月23日国語教室通信には、裏面にこんな箇所がありました。
♢D組、『知的生産の技術』と『読書論』、返してない人、大至急。
今度は、A組で使うので、本をもてない人ができてしまいます。
忘れたら、とりに行ってもらいます。
はい。はじまりへと戻るとすると、
梅棹忠夫著「知的生産の技術」の『まえがき』に
こんな箇所があり。思い浮かびます。
「 ・・ちょっとしたコツみたいなものが、
かえってほんとうの役にたったのである。
そういうことは、本にはかいてないものだ。・・」
学校の『書き初め』というのは
私の場合、前提として『書き初め』言葉が決められていて、
それを書くものだとばかり思って今にいたっておりました。
それが大村はまさんの国語教室では、自分で自分の言葉を選び
その選んだ言葉を、大村先生がお手本を書いては見本としてる。
『ちょっとしたコツみたいなもの』ということから、
わたしは、まど・みちおの詩の一行が思い浮かびます。
『 なんでもないことが たいへんなことなのだ 』
ちょっとしたコツという、何でもないことが、大変なことなのだ。
生徒ひとりひとりの言葉を、おてほんとして見本を書いてあげる、
そんな『ちょっとしたコツ』を、実行する大村は何者なんだろう。
はい。知るためには、そこに大村はま全集が待ち構えております。
うん。こうして自分で自分に言い聞かせ、全集を見あげます。
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