和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

令和3年元日「その共感が」。

2021-12-13 | 古典
平川祐弘著「一比較研究者(コンパラティスト)の自伝」。
その32回は「神道の行方」(月刊Hanada2021年5月号)でした。

この回は、ふるっているんですよ。
源氏物語の初音(はつね)をはじめの方で引用するかと思えば、
この回の最後はというと、火野正平の『にっぽん縦断こころ旅』
を紹介しておわるのでした。

はい。肝心なのは、本文の中頃なのですが、
なんせ、私は引用する才能がすくないので、
ここは、ほれ、最初と最後とを引用します。

「私は数えで九十一、わが国の新年の気分を大切にしょうと、
一片(ひとひら)の雲も見えず晴れわたり、うららかな令和3年の元日、
『源氏物語』の初音(はつね)を読み初めに音読した。

  年たちかへる朝(あした)の空の気色、 
  名残なく曇らぬうららかげさには、数ならぬ
  垣根の中(うち)だに雪間の草わかやかに色づきそめ、
  いつしかと気色だつ霞に木の芽もうちかぶり、
  自(おのづ)から人の心ものびらかにぞ見ゆるぞかし。  」
(p346~347)

はい。では、この32回目の最後を、ちょいと長く引用。

「卒寿の私は遠出は代々木の森がせいぜいで、
テレビで火野正平の自転車の『にっぽん縦断こころ旅』を、
一緒に長旅するつもりで眺めている。

ご本人にその自覚があるか知らないが、あの一行は
チャリンコで津々浦々を実は巡礼しているのだ。
尋ねる先は海辺、大樹、山頂、神社、寺の庭、小学校など、
私たちの心のふるさとである。

人々の思い出をたどるが、大和島根の行く先々の多くに、
神道のゆかりの地がある。

行方は自転車を漕ぐ人や、手紙で昔を語る人々の胸中にある。
いまは亡き人々を偲ぶ思い出が、自転車を漕ぐ人にも、
見ている私たちにも伝わる。その共感が尊い。
それが日本人の心の行方そのものなのではあるまいか。
  ・・・・・・・・・・・           」(p361)



うん。断片引用はここまで、
この回は、やはり全文を読んで味わいたいのでした(笑)。



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