和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

茶道史上の本能寺。

2024-10-06 | 古典
桑田忠親著作集全10巻を、『本能寺』という単語で辞書をひくように、
パラパラとめくっているとありました。「本能寺の変」。

桑田忠親著作集第一巻「戦国の時代」。そのp231~232。
桑田忠親著作集第四巻「織田信長」。そこのp115~121。

ここには、第四巻から引用してみたいと思います。

「・・・このように、信長は、単なる武将ではなくて、
 茶の湯ずきの趣味家でもあり、風雅の道に志がふかかった。
 武略にたけた強豪である反面に、かなりの数寄者でもあったのである。

 かれが、生涯の最後に、近習70人ばかりをつれて、
 西国出陣の途中、京都の本能寺に宿泊したのは、
 偶然の行動ではけっしてない。じつは、博多の
 数寄者島井宗叱(そうしつ)との先約をはたし、
 秘蔵の名物茶器を披露する茶会を、本能寺の書院で
 もよおすためだったのである。・・・」

このあとに、『仙茶集』にある『御茶湯道具目録』を紹介し、

「要するに、信長は、これだけ多くの名器を、安土から京都まではこばせ、
 かれ自身も、それを監視しながら、天正10年5月晦日、
 本能寺に到着したのであった。嫡男信忠のひきいる2000人の軍勢とは
 べつに、また馬廻の武士たちともはなれて、かれが、
 単独に行動したのは、このような事情があったからだ。

 月あけて、6月朔日、信長は、本能寺の書院で、それらの名器を
 披露する茶会をおこなったらしい。・・・・

  ・・・・・・・・・・・・・・
 さて、6月1日は、かくして暮れ、名物茶器披露の茶会のおわった
 翌2日の早暁、本能寺は突如として明智光秀の13000の大軍に包囲
 された。本能寺は兵火のために焼け落ち、38種の名器も、その
 秘蔵者織田信長と運命をともにしたのである。

 それは、天正17年の奥書のある『山上宗二記』にも、・・・
 ・・・信長の最期のとき、本能寺で火にいり、ほろびたことを
 注記しているから、たしかである。

 信長は、おそらく、西国出陣にさいし、京都で、
 名物びらきの茶会を盛大にもよおし、数寄者としての
 面目を、天下に誇示したかったのであろう。
 そうして、それが、はからずも、死の直前の饗宴とさえ
 なったのである。

 明智ほどの数寄者が、茶会の跡見を襲うことはあるまいと、
 あるいは、信じきっていたかもしれない。・・・   」

 はい。途中に『鳥井家由緒書』『宗湛由来書』『津田宗及茶湯日記』
 等からの引用があり、名器の名が並んでつらなっているのですが、
 当ブログではあまりにマニアックで煩雑になるので省略しました。
コメント
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