桑田忠親著作集全10巻を、『本能寺』という単語で辞書をひくように、
パラパラとめくっているとありました。「本能寺の変」。
桑田忠親著作集第一巻「戦国の時代」。そのp231~232。
桑田忠親著作集第四巻「織田信長」。そこのp115~121。
ここには、第四巻から引用してみたいと思います。
「・・・このように、信長は、単なる武将ではなくて、
茶の湯ずきの趣味家でもあり、風雅の道に志がふかかった。
武略にたけた強豪である反面に、かなりの数寄者でもあったのである。
かれが、生涯の最後に、近習70人ばかりをつれて、
西国出陣の途中、京都の本能寺に宿泊したのは、
偶然の行動ではけっしてない。じつは、博多の
数寄者島井宗叱(そうしつ)との先約をはたし、
秘蔵の名物茶器を披露する茶会を、本能寺の書院で
もよおすためだったのである。・・・」
このあとに、『仙茶集』にある『御茶湯道具目録』を紹介し、
「要するに、信長は、これだけ多くの名器を、安土から京都まではこばせ、
かれ自身も、それを監視しながら、天正10年5月晦日、
本能寺に到着したのであった。嫡男信忠のひきいる2000人の軍勢とは
べつに、また馬廻の武士たちともはなれて、かれが、
単独に行動したのは、このような事情があったからだ。
月あけて、6月朔日、信長は、本能寺の書院で、それらの名器を
披露する茶会をおこなったらしい。・・・・
・・・・・・・・・・・・・・
さて、6月1日は、かくして暮れ、名物茶器披露の茶会のおわった
翌2日の早暁、本能寺は突如として明智光秀の13000の大軍に包囲
された。本能寺は兵火のために焼け落ち、38種の名器も、その
秘蔵者織田信長と運命をともにしたのである。
それは、天正17年の奥書のある『山上宗二記』にも、・・・
・・・信長の最期のとき、本能寺で火にいり、ほろびたことを
注記しているから、たしかである。
信長は、おそらく、西国出陣にさいし、京都で、
名物びらきの茶会を盛大にもよおし、数寄者としての
面目を、天下に誇示したかったのであろう。
そうして、それが、はからずも、死の直前の饗宴とさえ
なったのである。
明智ほどの数寄者が、茶会の跡見を襲うことはあるまいと、
あるいは、信じきっていたかもしれない。・・・ 」
はい。途中に『鳥井家由緒書』『宗湛由来書』『津田宗及茶湯日記』
等からの引用があり、名器の名が並んでつらなっているのですが、
当ブログではあまりにマニアックで煩雑になるので省略しました。