本能寺の変は、天正10年6月2日。
すこし遡って、天正元年11月24日の朝。
「京都の妙覚寺において、信長の茶会が催され、
堺代官の松井友閑と宗久と山上宗二が招かれた。
宗易(利休)は、その席で濃茶の点前(てまえ)を行なっている。
信長の命令によって、特に名物三日月の壺の茶をひいて
抹茶を作ったのである。
床に牧谿の帆帰の絵を掛け、その前に三日月の茶壺を置き、
炉の鎖で鶴首の釜をつり、蕪無(かぶらなし)の花入には
信長のいけた白梅がにおっていた。
茶入は作物茄子(つくもなすび)、茶碗は大覚寺の天目を用いている。
料理は、雉焼、鶴の汁、蒲鉾、鯛の刺身、鶉の焼鳥、
菓子はむき栗、金柑、橘飩、煎榧、焼餅、といったもので、
宗久の点前で薄茶を飲み、
この日、信長の機嫌は上々であった。 」
( p53 桑田忠親著「定本千利休」角川文庫 )
はい。ここを引用しているだけで、何だか私は満腹感を味わいます(笑)。
なお、この箇所は「『今井宗久茶湯書抜』による」とありました。