和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

大震災の安房と県庁

2024-02-11 | 地震
「安房震災誌」(編纂・千葉県安房郡役所・大正15年3月)
「千葉県安房郡誌」(編纂兼発行所・千葉県安房郡教育会・大正15年6月)

この2冊は、こと関東大震災の記述は、お互いの記録を共有しておりました。
それから、もう1冊。
「大正大震災の回顧と其の復興」(上下巻・昭和8年8月発行)
こちらは、千葉県罹災救護会とあり「編纂を終へて」を読むと
編者・安田亀一となっております。
この3冊目は、千葉県全域における関東大震災への救援などを含むもので、
安房の大震災関連記事は「安房震災誌」資料をきちんと載せておりました。

私が語っている、安房の関東大震災は、この3冊の資料によっております。

震災当日の県庁では、どうだったのか?
「大正大震災の回顧と其の復興」上巻
そこにこうありました。

「かかる混乱時に於て、人々は東京に大災禍あるを知って、
 県内に之あるを知りえなかった。

 ・・警察部の記録の如く主なる警察電話さへ通ぜず
 為に県下の情況は暗中模索の情況であった。
 況んや誰か県下の安房郡その他が空前の大被害を蒙り、
 かの如き大惨状に呻吟しつつあらうとは・・・     」(p220)

いっぽうの安房郡役所では県庁への急使をどう選んだのか?

9月1日の午後2時過ぎ。県への使者を郡長は選びます。
それが、佐野郡書記でした。その後に、

「重田郡書記は自ら進んで、この大任に当たらんと申し出た。
 安藤郡書記も亦た同様に申し出た。・・・

 そこで、重田、安藤の2氏は、佐野氏の出発後、
 共に郡衙(ぐんご)を立ち出て、千葉へと向はれた。

 県への報告の要旨は第一は安房震災の惨状であるが、
 第二は工兵の出動と医薬、食料の懇請であった。

 ・・・重田郡書記は、徹夜疾走して、翌2日の正午を過ぐる
 1時半頃、他の2氏に先んじて、無事に県庁に到り、
 報告の使命を果たしたのであった。・・・    」(p235∼236)

そして「大正大震災の回顧と其の復興」上巻。

「安房郡に於ける被害や混乱状態の意想外なるものあることは、・・
 重田郡書記の陳述の外、小野防疫監吏が昼夜兼行にて重田群書記と
 前後して北條から齎した報告に依って明瞭となったので、

 県は一方に於いて食糧、医療の手配を考慮すると同時に、
 他方取り敢えず警備及救護に尽くさしむる為に、
 2日夜県下各署から巡査を千葉市に集合し、
 翌3日朝52名の一隊を遠藤警部をして之を引率せしめ、
 自動車にて北條警察署に応援せしめた。

 又一方未だ不明なる鴨川、千倉方面も被害甚大なるべきを予想して、
 千倉署へ21名、鴨川署へ10名の巡査を巡査部長指揮の下に派遣した。
 何れも軍用自動車を以て木更津町に輸送し、それより通行不能なる
 道路を自転車をもって急行せしめた。   」(p245∼246)

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