今年のはじめ、大村はまを読もうとしていたのに、
あれよあれよと、今は御伽草子。
大村はまの講演「教えるということ」で
私に忘れがたい箇所がありました。そこを反芻することに、
「・・子どものなかには、
どうかすると五行ぐらいで飽きてしまう子どもがいます。
五行ほど読むとひと息いれてぽっかりしていて、また少し読む。
こんな集中力のない子どもがだれとだれなのかおわかりですか。
一字一字見ている子どもと、ひとまとまりのことばを
ちゃんととらえるように成長してきた子ども、
それはいつごろからかご存じですか。いつごろといえば、
小学校にはいった始めごろ、すでにそうなってくる
子どもが、今、たくさんいます。・・・ 」
( p39 「新編教えるということ」ちくま学芸文庫 )
はい。ここを読んだときに、この『こんな集中力のない子ども』。
これは、私だと思いました。ここに、私がいたと思いました。
マンガとテレビの中で育ってきたので、
まとまった小説なんて、ちっとも読めないできました。
そんなわけで、何ページ読むか? それは私の気になるテーマです。
さてっと、バーバラ・ルーシュ著「もう一つの中世像」に
『源氏物語』をとりあげたこんな箇所がありました。
「日本人に向かって、『源氏物語』について説明する必要はないと思うが、
びっくりするのは、日本人が意外なほどこれを読んでいないということである。
・・・それじゃひとつ読んでみましょうという人が、ときたま現れるが、
次の機会に尋ねてみると、実は現代語訳で50ページほど読んだのですが、
退屈で退屈で放り出してしまいました、とまた頭に手をやるジェスチャー
を見せる人が多い。
トルストイにせよプルーストにせよ、どんなにすばらしい小説でも
最初の50ページほどは退屈なものである。・・・ 」
( p96~97 )
そしてバーバラさんは、こう書いておりました。
「 わたくしはいまでも、あのすばらしい『源氏物語』
を読み終えたときの感動をよく憶えている。 」( p97 )
う~ん。そういわれても、私は読まないだろうなあ。けれども、
マンガやテレビや映画に近い御伽草子ならば親近感が沸きます。
バーバラさんの「奈良絵本」へ言及した箇所があります。
「いま奈良絵本という言葉を使ったが、不思議なのは、
ほとんどの中世小説がこの奈良絵本の形で残っている事実である。
奈良絵本とは、簡単に説明すると、15世紀から18世紀にかけて
多く現れてきた、文章とさし絵の入った、版本でない手書きの
書物のことを指すが、絵巻の形式も存在する。・・・・
たとえば、さし絵を見ただけでも一流のプロが描いたものから
まったくの素人の作品まで・・いろいろな人たちがこれらの
製作にたずさわったことと思われ、また文章についても、
多くの種類の人たちがこのような作品に関与したと考えられる。」(p 106 )
このあとに、ヨーロッパやアイルランド、チベットやインドにも
共通する結びつきを紹介したあとに、こうありました。
うん。最後にそこを引用。
「 その結果、中世のあらゆる階層の人たちは、
無意識のうちに絵と文章が渾然一体となる世界を受け入れ、
奈良絵本の世界を創り上げていったのではないかと思われる。
・・・奈良絵本の世界は生きた世界で、一つの有機物といえる。
当時の日本人は、この世界のなかに、無意識のうちに自分たち
の性格にぴったり一致した物語を入れたのである。
この世界は、もはや平安文学の世界ではなく、新しい世界なのである。
・・・わたくしは、この中世小説のなかに、御伽草子のなかに、
この奈良絵本のなかに、日本人の創造性の一つを見る。 」(p109)
私も「五行ほど読むとひと息いれてぽっかりしていて、また少し読む」タイプです。
だから、伊勢物語は好きですね。
源氏物語は読んでて疲れるので、五行ほど読んで、次の五行を読んで、途中新古今和歌集を読んで、2週間ほどで3ページを読んでいます。
一単語、一単語づつゆっくりとしか読めないタイプなんだなあ😅とblogを読んで思いました。
源氏物語を読んだ事のある日本人は少ないでしょう?
又お邪魔いたします。
コメントを頂きありがとうございます。
なんだか、女性からコメントを頂くのより、
男性からのコメントだと、緊張します(笑)。
ため口が普通の私だからかもしれません。
何か、変なことを言ってしまわないかと・・。
私に源氏物語は、猫に小判。それならばと、
御伽草子へ、もうすこし歩を進めてみます。
ということで今日のブログも御伽草子です。