梅棹忠夫著作集第7巻「日本研究」。
そこにある「『日本文明77の鍵』について」。
はじまりの解説には、
「この本は、1983年に
『Seventy‐seven keys to the civilization of Japan』
という表題のもと、英語版で出版された。さらに、
1988年には『日本文明77の鍵』という表題のもとに、
日本語版が刊行された。英語版が先行し、日本語版が
ずっとおくれて出版されるという、めずらしい経過をたどった本である。」
(p447)
この英語版まえがきを、梅棹忠夫が書いており、
そのまえがきに、人力車が出ておりました(笑)。
「・・・・なお外国には、現在の日本にも依然として
刀をさした侍がいて、人力車にのっているとまじめに
信じている人が数おおく存在する。・・・」(p449)
京都参りをした。お上りさんの私には、
なにげに、人力車が印象に残りました。
八坂の塔へあがってゆくと、
その塔の下に人力車があり、
客待ちをしておりました。
まあ、乗る人はいなかった。
ですが、京都に人力車は、映えますね(笑)。
八坂の塔から、円山公園まで
タラタラと歩いていると、
あれ、人力車の集車場みたいに、
何台もの人力車と車夫とがおりました。
さてっと、松田道雄著
「明治大正 京都追憶」(同時代ライブラリー)を
帰って来てからめくっていると、長塚節が京都へと
来る場面がありました。そこに人力車が登場します。
うん。せっかくなので、ながめに引用してみます。
「長塚節がやってきて、赤ん坊の私をだいてくれたのである。
父は漢詩が好きで、後年、国訳漢文大成を買いこんで、
寝るまえに唐詩選を読んでいた。
しかし日本の文学には興味をもたなかった。
円本の時代がきたとき漱石全集を買ったが、
小説の巻を二、三読んだだけだった。
父の本箱にあった唯一の小説は長塚の『土』であった。
・・愛読していた。茨城の風景や会話が出てくるのが、
うれしかったのだろう。
旅行が好きだった長塚は、西国に来るたびに、
父の所に寄った。・・・」(p17)
このあとに、人力車が出てきます(笑)。
「夏の午後、めずらしく母は私をつれて散歩にでかけた。
客がなくてこまっていた人力の車夫が、やすくするから
といって、東山見物をすすめた。父が案内してくれるのを
待っていては、いつになるかわからないので、
母は思いきって車にのった。
円山公園から清水のほうをゆっくりまわって夕方になった。
帰ってきておどろいたことに、閉めてあったはずの
表戸があいていて、家の前はきれいに掃いて水を打ってある。
家にはいると
『ばか、どこ、ほっつきあるいてんだ』とどなられた。
・・・・聖護院に私たちが住んだのは
明治42年4月から43年のはじめまでだったから、
長塚は42年の夏に京都に来たと思う。」
(~p20)
はい。外国人の人力車というイメージ。
次は、明治42年の京都の人力車でした。
あそこ辺の人力車にも歴史があるのだ。
そこにある「『日本文明77の鍵』について」。
はじまりの解説には、
「この本は、1983年に
『Seventy‐seven keys to the civilization of Japan』
という表題のもと、英語版で出版された。さらに、
1988年には『日本文明77の鍵』という表題のもとに、
日本語版が刊行された。英語版が先行し、日本語版が
ずっとおくれて出版されるという、めずらしい経過をたどった本である。」
(p447)
この英語版まえがきを、梅棹忠夫が書いており、
そのまえがきに、人力車が出ておりました(笑)。
「・・・・なお外国には、現在の日本にも依然として
刀をさした侍がいて、人力車にのっているとまじめに
信じている人が数おおく存在する。・・・」(p449)
京都参りをした。お上りさんの私には、
なにげに、人力車が印象に残りました。
八坂の塔へあがってゆくと、
その塔の下に人力車があり、
客待ちをしておりました。
まあ、乗る人はいなかった。
ですが、京都に人力車は、映えますね(笑)。
八坂の塔から、円山公園まで
タラタラと歩いていると、
あれ、人力車の集車場みたいに、
何台もの人力車と車夫とがおりました。
さてっと、松田道雄著
「明治大正 京都追憶」(同時代ライブラリー)を
帰って来てからめくっていると、長塚節が京都へと
来る場面がありました。そこに人力車が登場します。
うん。せっかくなので、ながめに引用してみます。
「長塚節がやってきて、赤ん坊の私をだいてくれたのである。
父は漢詩が好きで、後年、国訳漢文大成を買いこんで、
寝るまえに唐詩選を読んでいた。
しかし日本の文学には興味をもたなかった。
円本の時代がきたとき漱石全集を買ったが、
小説の巻を二、三読んだだけだった。
父の本箱にあった唯一の小説は長塚の『土』であった。
・・愛読していた。茨城の風景や会話が出てくるのが、
うれしかったのだろう。
旅行が好きだった長塚は、西国に来るたびに、
父の所に寄った。・・・」(p17)
このあとに、人力車が出てきます(笑)。
「夏の午後、めずらしく母は私をつれて散歩にでかけた。
客がなくてこまっていた人力の車夫が、やすくするから
といって、東山見物をすすめた。父が案内してくれるのを
待っていては、いつになるかわからないので、
母は思いきって車にのった。
円山公園から清水のほうをゆっくりまわって夕方になった。
帰ってきておどろいたことに、閉めてあったはずの
表戸があいていて、家の前はきれいに掃いて水を打ってある。
家にはいると
『ばか、どこ、ほっつきあるいてんだ』とどなられた。
・・・・聖護院に私たちが住んだのは
明治42年4月から43年のはじめまでだったから、
長塚は42年の夏に京都に来たと思う。」
(~p20)
はい。外国人の人力車というイメージ。
次は、明治42年の京都の人力車でした。
あそこ辺の人力車にも歴史があるのだ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます