和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

祖父(じいじ)の最終講義。

2020-04-29 | 道しるべ
平川祐弘氏が産経新聞(令和2年3月4日)のオピニオン欄で
芳賀徹氏への追悼文を書いており、印象に残っております。
そこには、こうある。

「・・芳賀と私はその小学4年以来、中・高・大・大学院・留学、
そして勤め先の東大教養学部も同じで、比較文化研究の
大学院を平成4年の定年まで担当した。その芳賀が2月20日、
88歳で草葉の陰に去った。・・・・・」

現在、平川祐弘氏には、『自伝』を雑誌に連載しております。
月刊Hanadaの6月号で、その連載は23回目をむかえております。
はい。23回目だけ、読んでみました(笑)。

はじまりは
「・・『神曲』読書の思い出を綴ることにしたい。」
とあります。
以下、年代順に配列しなおして、要約し引用。

1950年

「18歳のとき、私は大学の課外演習で島田謹二先生から
上田敏訳でダンテの詩数篇を習った。・・・ダンテに材をとった
ダンヌンチオの『燕の歌』や『神曲』そのものの敏訳はすばらしかった。
島田先生は地獄篇第5歌を西洋文学の時間にとりあげ、
バオロとフランチェスカの条りを熱をこめて説明された。

  姫はいふ、かなしみにありて
  楽しかりし日を思ふばかり痛ましきはなし

朗誦するごとく読まれた先生の声音がいまも耳に響く。
学友の絹村和夫が謄写版で用意したプリントの美しい
字体もなお眼底にある。

学生時代を通じなにが印象深いといって、大学にはいりたての、
いわば白紙の頭に滲(し)みこむような、立派な講義ほど
心魂(しんこん)に徹するものはない。・・・・
もっとも私のダンテ読書は地獄篇第5歌どまりで、それより
先へは足を踏み入れずにいた。・・・」(p347)

1954年

「ソルボンヌでは私が到着した1954年晩秋は
『神曲』地獄篇の1、3、5歌が題材に選ばれた。・・・・
気詰まりのなかで、友人もなく、最初の冬は孤独で、荒涼としていた。
朝起きた時パリは暗く、夕方帰る時も暗い。・・・・クリスマスになる。
学生たちは帰郷して大学都市は火が消えたようである。
自分を迎えてくれる家庭もなく、寮と学生食堂の間を往復した。
そんなはなやぎの失せた中で迎えた元旦、
『神曲』のフランス語訳の地獄篇第1歌を声に出して読んだ。
我と我自らを励ますように読んだ。

  そして、辛うじて難破から逃れて浜辺に辿りついた男が
  苦しそうに肩で息をつきながら振り向いて荒海を見るように、
  私の魂も、まだまだ逃げのびようとしていたが・・・・   」

1959年

「イタリアへ行って私がイタリア語の勉強を始めた・・」(p348)


1964年「助手になる。」

「外国に長くいた私は、人より遅れ学部卒業後11年で助手になった。
後輩が常勤講師や助教授になっている。学期試験の時、そうした人の
試験の補助監督を毎学期7回ずつさせられた。
・・・裏では悪口を言われ、表では無視された。
私がフランス文学会に出向いて発表すると、
『私は聴きませんから』とわざわざ私に御挨拶するTなどもいた。
フランス語教室で親睦旅行に行くと『助手はその隅の女中部屋に
泊れ』と部屋割りをしたのは年下のWである。しかし
大学院助手として私は精励恪勤(せいれいかくきん)した。
60歳の定年までこのままで構わない、と決めたのは
勤めて1年経ったある夕方のことで、すると気が落ち着いた・・・」

このあとに、当時平川祐弘氏から原典講義を受けた
井上隆夫氏の回顧を引用されております。
その井上氏の文も引用

「大学の語学授業も進んで来れば、当然ながら原典購読
・・・本当の原書を手にしたのは、平川先生の授業で、
イタリアの国民的作家マンゾーニの『いいなづけ』の購読授業
を受けた時でした。・・・こちらはイタリア語の初歩を終えたばかり。
・・この出来の悪い学生に、先生は苛立ちもせず懇切に説明をして
下さる。

  この再帰代名詞siの使い方は『自分を』という意味ではなく、 
  むしろ本来の用法から発展して主語的に用いられるように
  なったもの。『人は』という意味に解釈した方がよい

などと細かい文法説明がある。それで意味がすっと呑み込める。
さらに圧巻は、文章解釈のために
英語訳をはじめドイツ語訳、フランス語訳など
複数の外国語訳を用意して、日本語訳(これは学生も買ってもっている)
と比較を行なってくれたことで、それを聞くと
手持ちの日本語訳のひどさが浮き彫りになってしまう。
平川先生の授業で、翻訳には広い素養が必要なのだということを
実感した。」(p357)

これを受けて平川氏の文がつづきます。

「廉価なRizzoliの文庫本を私は揃えておいて
東大や東外大の授業にも用いた。マンゾーニは
仏訳本で一度駒場で、
英訳本で一度東京女子大の牟礼キャンパスで教えた。

井上学生は・・・辞書を片手に読み始めた時の昂揚感と
幸福感は、50年後の今でもはっきりと覚えているという。

私もまた外国語の文法を教えて幸福だった。
『いいなづけ』は20余年間、教室で教えて全38章を訳し終えた。
カトリックの国の学者は大学卒業後、自己にふさわしい職に
就くまでの中途半端な期間を煉獄と呼ぶ。・・・・・」(~p358)

1968年

「春に東大医学部で発火し、たちまち全学、
いや全国にひろがった大学紛争・・・

当時の過激派学生は口実を設けて
学生大会でストライキを一たび可決させるや、
後はもはや民主主義的手続きを尊重しない。

『もうやめよう』という気運が一般学生の間で盛り上がっても、
その時は学生大会を開かない、開いても真夜中過ぎまで
会議を引き延ばせば普通の学生は帰宅してしまう。
スト中止は可決させない。だから無期限ストの様相を呈する。

・・・・新聞は第一面では学生の暴力行為を戒め、
社会面では『純粋な青年の行動』を讃える。
そんな煽動に乗る者は、学生にも助手にも教師にもいる。

ストライキに反対で下北沢に一室を借りた連中に、
私は『神曲』を英訳でずっと教えた。
初めのうちは毎週土曜日の午後、切符を買って通ったが、
紛争が終わらない。しまいに回数券を買った。

・・・・警察力の及ばない学内で、
一般学生が暴力学生に立ち向かえるはずはない。
1968年の12月に研究室は過激派学生に占拠された。
助手の私はストライキに同調しない大学院生を連れて
八王子のセミナーハウスへ泊りに行った。」

はい。雑誌6月号の、連載23回目のしめくくりを、平川氏は
「1969年の年賀状に私は天国篇第13歌の一節を印刷して送った。」
として、年賀状の文面を引用しておりました。
うん。引用しておきます(笑)。


  良し悪しを言うにせよ是非を論ずるにせよ
  細かい判断もなしに肯定否定を行なう者は
  愚か者の中でも下の下たる者だ。

  だから、はやまった意見はとかく
  狂った方角へ曲がりこむ。
  その上、情が知にからむ。

  真理を漁ってそれを取る技を心得ぬ者は、
  来た時と同様手ぶらで帰るわけにはゆかぬというので
  むやみと岸を離れたがるが、それが危険なのだ。


さてっと、昨日の産経新聞「正論」欄での平川祐弘氏の
「コロナ禍の災い転じて読書の福」と題する文のなかに

平川氏の奥様・依子さんが登場します。
孫娘に語る場面でのセリフがひとこと。
その箇所を引用。

「スマホのゲームに溺れないかと心配する家内は
『祖父(じいじ)の本でも読めば』と言う。
だが帰国子女は米国の高校の宿題に追われ、
馬耳東風、私の著作集など見向きもしない。」

はい。見向きもされない、祖父(じいじ)の本。
それを、ちょこっとですが紹介できました(笑)。




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