地方紙「房日新聞」2009年2月4日の「読者のコーナー」に山口栄彦氏が書いておりました。現在の布良の様子を知るにうってつけの文。それを引用。
「『富士には月見草がよく似合う』。これは、富士山が目の前に見える山梨県の御坂峠の黒い石碑に刻みこまれた小説家、太宰治の名句・・・・
18歳で古里布良を出て半世紀余り経って、生家にほど近いところに住んでみると、藁葺き屋根は消え老人の住む都会風の2階建てが目立つ。全校児童が17人という小学校に象徴されるように、地域はすっかり変わった。しかし、洲崎の先端に浮かび上がる富士はそのままだ。大神宮での楽しみの1つは、布良・相浜の友人や、近所の知人に会うことだ。海辺の大きな平屋建てに、老夫婦だけで住んでいるFさん夫婦とは幼なじみのうえ、生家の親戚ということでよく立ち寄っては喋る。Fさんは読書家だ。筆者と小学校が同期で、女子組にいたMさんが時々、側の夫の話に口をはさむ。Mさんの家からは、海の彼方の富士山がそっくり見える。さえ切る物がいっさいないからだ。
藁葺き屋根の家が5、6軒あった集落から、大家族のFさんの家に嫁いだMさんは、3人の子どもを育てたが、3人とも親元にはいない。80歳近いMさんは、布良以外の土地で生活したことがないと言う。窓を開ければ、船と港と海、それに大島と富士が、そのまま見える静寂な環境に若干の嫉妬と皮肉をこめて『Mさん、あきない』と訊いてみた。すると、『富士はあきないね』と答えた。話を終えて外に出ると、右手に夕方の富士がくっきりと見えた。布良・相浜には富士がよく似合う。」
青木繁も、布良からの、かわらない富士を見て、ひと夏を過ごしたのだろうと、思うわけです。ちなみに、山口栄彦(えいひこ)氏は1930年生まれ。「鯨のタレ」(多摩川新聞社)などの著作があります。
その「鯨のタレ」の中に、青木繁についての文がありました。
それは、布良に青木繁の碑を建てる計画で、昭和36年に小石川の福田蘭童(青木繁の子供)を訪ねた際に、聞いた話を再録しておりました。当時の市の担当課長長谷川広治氏が福田母子との懇談を書き留めたものだそうです。
「・・・・私達と森田と坂本と四人で行った。船で館山に着いた。霊岸島を夜九時に出て朝着いたが、茶店で氷水を食べたことを覚えている。それから歩いて安房神社の前の道を通り、吉野家旅館に一泊した。・・・喜六の二室を借りた。7月12、13日と覚えている。9月1日から学校が始まるので、それまでの40日間はいた。絵(海の幸)はデッサンをして東京で仕上げた。雨の日は、喜六で使っていた男を二人ばかりモデルにして書いた。最初は海女が海に飛び込むときに、足の裏だけが白く光っているので面白いと考えて書いた。二回目は海女が樽を担いで帰るところを書いてみた。いずれも女性的で駄目だった。三回目に『海の幸』のデッサンをした。書いたのは陽の落ちる頃だった。元の絵は背景に金粉を使った。金粉は、保田まで買いに行ったが、本物がなく色が冷めてしまった。絵は売るということではなく、芸術的な気持ちで書いた。六十枚近くあったが、震災と戦災で燃えたものもある。主にスケッチは、向井の港の脇あたりでやった。平砂浦、伊戸にも行った。小湊へは参拝に行った。まいわいを着て旗を立てて帰ってくる船を覚えている。布良を詠んだ歌は幾つかあったが、いま覚えているのは一つだけだ。子供を背負った女性が提灯を持ち、岩の上に立って夫の帰りを待っている絵に、即興的に作った歌である。絵は戦災で焼けてしまった」
注目するのは、最初に海女を描こうとしていたこと。それが「いずれも女性的で駄目だった」という箇所です。「書いたのは陽の落ちる頃だった」というので、ちょっと曖昧ですが、描かれているのは夕日をうけた漁師たちの様子なのでしょうね。背景の金粉というのは、どんな風だったのか、その頃のカラー写真でもあればなあ。と思ったりします。
「『富士には月見草がよく似合う』。これは、富士山が目の前に見える山梨県の御坂峠の黒い石碑に刻みこまれた小説家、太宰治の名句・・・・
18歳で古里布良を出て半世紀余り経って、生家にほど近いところに住んでみると、藁葺き屋根は消え老人の住む都会風の2階建てが目立つ。全校児童が17人という小学校に象徴されるように、地域はすっかり変わった。しかし、洲崎の先端に浮かび上がる富士はそのままだ。大神宮での楽しみの1つは、布良・相浜の友人や、近所の知人に会うことだ。海辺の大きな平屋建てに、老夫婦だけで住んでいるFさん夫婦とは幼なじみのうえ、生家の親戚ということでよく立ち寄っては喋る。Fさんは読書家だ。筆者と小学校が同期で、女子組にいたMさんが時々、側の夫の話に口をはさむ。Mさんの家からは、海の彼方の富士山がそっくり見える。さえ切る物がいっさいないからだ。
藁葺き屋根の家が5、6軒あった集落から、大家族のFさんの家に嫁いだMさんは、3人の子どもを育てたが、3人とも親元にはいない。80歳近いMさんは、布良以外の土地で生活したことがないと言う。窓を開ければ、船と港と海、それに大島と富士が、そのまま見える静寂な環境に若干の嫉妬と皮肉をこめて『Mさん、あきない』と訊いてみた。すると、『富士はあきないね』と答えた。話を終えて外に出ると、右手に夕方の富士がくっきりと見えた。布良・相浜には富士がよく似合う。」
青木繁も、布良からの、かわらない富士を見て、ひと夏を過ごしたのだろうと、思うわけです。ちなみに、山口栄彦(えいひこ)氏は1930年生まれ。「鯨のタレ」(多摩川新聞社)などの著作があります。
その「鯨のタレ」の中に、青木繁についての文がありました。
それは、布良に青木繁の碑を建てる計画で、昭和36年に小石川の福田蘭童(青木繁の子供)を訪ねた際に、聞いた話を再録しておりました。当時の市の担当課長長谷川広治氏が福田母子との懇談を書き留めたものだそうです。
「・・・・私達と森田と坂本と四人で行った。船で館山に着いた。霊岸島を夜九時に出て朝着いたが、茶店で氷水を食べたことを覚えている。それから歩いて安房神社の前の道を通り、吉野家旅館に一泊した。・・・喜六の二室を借りた。7月12、13日と覚えている。9月1日から学校が始まるので、それまでの40日間はいた。絵(海の幸)はデッサンをして東京で仕上げた。雨の日は、喜六で使っていた男を二人ばかりモデルにして書いた。最初は海女が海に飛び込むときに、足の裏だけが白く光っているので面白いと考えて書いた。二回目は海女が樽を担いで帰るところを書いてみた。いずれも女性的で駄目だった。三回目に『海の幸』のデッサンをした。書いたのは陽の落ちる頃だった。元の絵は背景に金粉を使った。金粉は、保田まで買いに行ったが、本物がなく色が冷めてしまった。絵は売るということではなく、芸術的な気持ちで書いた。六十枚近くあったが、震災と戦災で燃えたものもある。主にスケッチは、向井の港の脇あたりでやった。平砂浦、伊戸にも行った。小湊へは参拝に行った。まいわいを着て旗を立てて帰ってくる船を覚えている。布良を詠んだ歌は幾つかあったが、いま覚えているのは一つだけだ。子供を背負った女性が提灯を持ち、岩の上に立って夫の帰りを待っている絵に、即興的に作った歌である。絵は戦災で焼けてしまった」
注目するのは、最初に海女を描こうとしていたこと。それが「いずれも女性的で駄目だった」という箇所です。「書いたのは陽の落ちる頃だった」というので、ちょっと曖昧ですが、描かれているのは夕日をうけた漁師たちの様子なのでしょうね。背景の金粉というのは、どんな風だったのか、その頃のカラー写真でもあればなあ。と思ったりします。