和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

女性的で駄目。

2009-02-08 | Weblog
地方紙「房日新聞」2009年2月4日の「読者のコーナー」に山口栄彦氏が書いておりました。現在の布良の様子を知るにうってつけの文。それを引用。

「『富士には月見草がよく似合う』。これは、富士山が目の前に見える山梨県の御坂峠の黒い石碑に刻みこまれた小説家、太宰治の名句・・・・
18歳で古里布良を出て半世紀余り経って、生家にほど近いところに住んでみると、藁葺き屋根は消え老人の住む都会風の2階建てが目立つ。全校児童が17人という小学校に象徴されるように、地域はすっかり変わった。しかし、洲崎の先端に浮かび上がる富士はそのままだ。大神宮での楽しみの1つは、布良・相浜の友人や、近所の知人に会うことだ。海辺の大きな平屋建てに、老夫婦だけで住んでいるFさん夫婦とは幼なじみのうえ、生家の親戚ということでよく立ち寄っては喋る。Fさんは読書家だ。筆者と小学校が同期で、女子組にいたMさんが時々、側の夫の話に口をはさむ。Mさんの家からは、海の彼方の富士山がそっくり見える。さえ切る物がいっさいないからだ。
藁葺き屋根の家が5、6軒あった集落から、大家族のFさんの家に嫁いだMさんは、3人の子どもを育てたが、3人とも親元にはいない。80歳近いMさんは、布良以外の土地で生活したことがないと言う。窓を開ければ、船と港と海、それに大島と富士が、そのまま見える静寂な環境に若干の嫉妬と皮肉をこめて『Mさん、あきない』と訊いてみた。すると、『富士はあきないね』と答えた。話を終えて外に出ると、右手に夕方の富士がくっきりと見えた。布良・相浜には富士がよく似合う。」

青木繁も、布良からの、かわらない富士を見て、ひと夏を過ごしたのだろうと、思うわけです。ちなみに、山口栄彦(えいひこ)氏は1930年生まれ。「鯨のタレ」(多摩川新聞社)などの著作があります。
その「鯨のタレ」の中に、青木繁についての文がありました。
それは、布良に青木繁の碑を建てる計画で、昭和36年に小石川の福田蘭童(青木繁の子供)を訪ねた際に、聞いた話を再録しておりました。当時の市の担当課長長谷川広治氏が福田母子との懇談を書き留めたものだそうです。

「・・・・私達と森田と坂本と四人で行った。船で館山に着いた。霊岸島を夜九時に出て朝着いたが、茶店で氷水を食べたことを覚えている。それから歩いて安房神社の前の道を通り、吉野家旅館に一泊した。・・・喜六の二室を借りた。7月12、13日と覚えている。9月1日から学校が始まるので、それまでの40日間はいた。絵(海の幸)はデッサンをして東京で仕上げた。雨の日は、喜六で使っていた男を二人ばかりモデルにして書いた。最初は海女が海に飛び込むときに、足の裏だけが白く光っているので面白いと考えて書いた。二回目は海女が樽を担いで帰るところを書いてみた。いずれも女性的で駄目だった。三回目に『海の幸』のデッサンをした。書いたのは陽の落ちる頃だった。元の絵は背景に金粉を使った。金粉は、保田まで買いに行ったが、本物がなく色が冷めてしまった。絵は売るということではなく、芸術的な気持ちで書いた。六十枚近くあったが、震災と戦災で燃えたものもある。主にスケッチは、向井の港の脇あたりでやった。平砂浦、伊戸にも行った。小湊へは参拝に行った。まいわいを着て旗を立てて帰ってくる船を覚えている。布良を詠んだ歌は幾つかあったが、いま覚えているのは一つだけだ。子供を背負った女性が提灯を持ち、岩の上に立って夫の帰りを待っている絵に、即興的に作った歌である。絵は戦災で焼けてしまった」

注目するのは、最初に海女を描こうとしていたこと。それが「いずれも女性的で駄目だった」という箇所です。「書いたのは陽の落ちる頃だった」というので、ちょっと曖昧ですが、描かれているのは夕日をうけた漁師たちの様子なのでしょうね。背景の金粉というのは、どんな風だったのか、その頃のカラー写真でもあればなあ。と思ったりします。

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漱石と青木繁。

2009-02-07 | Weblog
夏目漱石の一生は、1867年2月~1916年12月。
そして、青木繁は、1882年7月~1911年3月。
こうしてみると漱石の一生の間に、年代としては青木繁の生涯が納まっている。

ところで、クレージーキャッツのメンバーとして知られている石橋エータロー氏は、青木繁の孫にあたるのでした。その石橋氏の文に「放浪三代」がありました。最初の「祖父・青木繁」は、こう書き始められております。

「『いつかの展覧会に青木と云う人が海の底に立っている背の高い女を画いた。代助は多くの出品のうちで、あれ丈が好い気持に出来ていると思った。つまり自分もああ云う沈んだ落ち付いた情調に居りたかったからである・・・・』夏目漱石は、明治42年、小説『それから』の一節で右のように述べている。この中の『青木と云う人』というのは、明治の天才画家だった青木繁である。その青木繁は私の祖父にあたる。もっとも祖父は、28歳で夭折しているから、私はもちろん、父・福田蘭童(らんどう)もその顔ははっきり知らない。・・・」(「画家の後裔」講談社文庫・p68)

漱石の年譜には
1909年(明治42年)43歳
6月27日、「それから」を東西両「朝日新聞」(~10月14日)に連載。
9月、中村是公の招きで満洲・朝鮮を旅行、10月17日に帰宅する。
約50日間の旅であった。10月、「満韓ところどころ」を
東西両「朝日新聞」(~12月)に連載。

その、「海の底に立っている背の高い女を画いた」の絵というのは、
青木繁の「わだつみのいろこの宮」なのでしょう。
では、青木繁の年譜から

1907年(明治40年)
  1月福田家に身を寄せ、制作に没頭
  3月「わだつみのいろこの宮」を東京府勧業博覧会に出品
  7月選考の結果三等賞末席
  8月父危篤の報に帰省
  10月 第一回文展に「女の顔」出品するも落選

ここでは、「わだつみのいろこの宮」に注目した漱石をとりあげます。
というのは、水と女性というのが、漱石の関心がある絵のキーワードとしてあるようなのです。さて、関係がありそうな本として飛ヶ谷美穂子(ひがやみほこ)著「漱石の源泉 創造への階梯」(慶応義塾大学出版会)がありました。
その本の口絵にジョン・エヴァレット・ミレー画「オフィーリア」のカラー写真があります。どんな絵かは本文から引用しましょう。
「『ミレーのオフェリア』とは、周知のとおり英国の画家ジョン・エヴァレット・ミレーが、水に沈まんとする刹那なオフェーリアを描いた、ラファエル前派絵画の白眉である。19世紀後半から今世紀にかけて、ヨーロッパを中心に、このオフェーリアのように水の流れに身をゆだねて死んでゆく女性のイメージが、さまざまなジャンルの文学や芸術に、繰り返し描かれた。いわゆるオフェーリア・コンプレックスである。・・・『ミレーのオフェーリア』は、既に『草枕』論のキーワードの一つとなったと言って過言ではない。」
ちなみに飛ヶ谷氏のこの関連文の最初を引用しておきましょう。

「『草枕』(明治39年9月)の画工は、水に浮かぶ那美のイメージに囚われ、第七章では温泉の湯に身を漂わせながら、長良の乙女とオフェーリアを綯い交ぜにしたような『風流な土左衛門』の図を思い描く。

  ・・・・流れるもの程生きるに苦は入らぬ。流れるもののなかに、魂迄流して居れば、
キリストの御弟子となったより有難い。成程此調子で考えると、土左衛門は風流である。スヰンバーンの何とか云う詩に、女が水の底で往生して嬉しがって居る感じを書いてあったと思う。余が平生から苦にして居た、ミレーのオフェリアも、かう観察すると大分美しくなる。何であんな不愉快な所を択んだものかと今迄不審に思って居たが、あれは矢張り画になるのだ。水に浮んだまま、或は水に沈んだまま、或は沈んだり浮んだりしたまま、只其のままの姿で苦なしに流れる有様は美的に相違ない。・・・     」

こうして漱石の『草枕』を引用しながら論を展開して、英国の詩を引用したりしながら、最期に飛ヶ谷氏はこう指摘しておりました。
 「しかし、『草枕』の画工が描こうとしたのは、あくまで『風流な土左衛門』であった。一般論からいえば、『風流』とはスウィンバーンからおよそ縁遠い言葉である。彼の描いた水の中の炎のようなサッフォー像にひかれ、可憐なオフィーリアの図像の上にそれを重ねて、イメージをふくらませながらも、漱石の眼はその彼方に、別のかたちの救いを求めていたのであろう。オフィーリア、リジー、スウィンバーン、サッフォー・・・そして熊本時代に入水自殺をはかった妻鏡子のことまで思い合わせると、土左衛門をあえて『風流』と言い切ったのは、決して浮き世離れした俳諧趣味などではありえない。その裡にはむしろ、漱石のかかえているものの重さと、そのすべてを対象化によって救いとろうとする思いの烈しさとが、こめられていたように思われる。・・・・」(p60~61)


漱石は、自分のテーマが絵画化された像をもっていたようです。そこに、青木繁の作りあげた女性像を、思いがけず観ることができた。思わず、小説の中へとそれを書き込んでいたものと思われるのでした。そんな想像をしてみるのですが、どうでしょう。
ちなみに、雑誌「太陽」の載った「わだつみのいろこの宮」の絵の脇解説はこうありました。
「1907/油彩/181×70/ブリヂストン美術館 重文 海幸彦・山幸彦の神話に想をとる。『僕がこの絵を作るのには実に三年の日子を費して居る』。印象を刻んだのは、房州旅行の時、怒涛の海を潜りアマメガネで遊んだ時であるという」

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昔からの友人。

2009-02-06 | Weblog
半藤一利著「続 漱石先生ぞな、もし」(文藝春秋)の後口上。
そこに、最初に書かれた「漱石ぞな、もし」について、こうありました。
「わたくしの表看板は、昭和史研究であり日本近代史研究である。その延長上で夏目漱石が気になる存在として調査の対象になった・・・昔からの友人たちに、『君の書いたもので、今度の〈ぞなもし〉が最良だね』といわれた・・・」

うんうん。「昔からの友人たち」はありがたいもので、その鑑識眼に、私も賛同したくなります。持つべきものは友ぞな、もし。

ということで、〈ぞなもし〉に現れた、漱石の初期作品評価を列挙するのも
無駄ではなかろうと、思うわけです。

「漱石の小説群は、後期になると作為が目立ちすぎて、文章をたどるのがややシンドクなってくる、と思うが・・・・。で、傑作は何かと問われれば『吾輩は猫である』と『坊つちやん』と『草枕』をあげる。さっきも書いたように、なかんずく『坊つちやん』がのびのびとしていていい。しかも一本調子でなく、屈折もある。」
        (「漱石先生ぞな、もし」単行本p49)

次は、半藤一利著「漱石先生お久しぶりです」(平凡社)から、
これは、最近2月4日のブログで引用しましたが、もう一度。

「活字とはまことに有り難いものである。漱石が書いたもの、喋ったことなどがすべて本を通して、好きなときに読むことができる。『平時悠然、大事平然、失意泰然、危惧毅然、名利超然、毀誉恬然(きよてんぜん)』とは勝海舟のいった言葉であるという。含意のある語録とは承知しているものの、凡俗者としては簡単に失意のときに泰然というわけにはまいらぬ。そんな折に、わたくしは漱石先生とじっくりとつき合うのである。失意のときには『坊つちやん』を読み、毀誉褒貶に気持ちがゆれたりすると『吾輩は猫である』をパラパラとめくる。きまって漱石は何ごとか語りかけてくれる。」(p260)


もう一箇所忘れずに引用しておきましょう。
まずは、司馬遼太郎の短い文を全文引用しておりました。
ここでは、すこし端折って引用
「若いころ、なにかの口頭試問でそういう質問をうけたとき、ハイ、夏目漱石です、と答えるようにしていた。口上として無難だからである。いまもそう答えるしかないが、むろん漱石から影響をうけたとはとても思えない。かといって他のだれから影響をうけたわけでもなく、若いころはそのことが小さな劣等感になっていた。・・・・ただ・・漱石という人は、作家がとうていそこから自由になりがたいその時代の様式というものから、じつに度胸よく脱け出ていたということである。様式どころか、これが小説かというようなものをぬけぬけと書いていた。そういう意味での一種の守護神として漱石をかぎりなく尊敬するが、しかし影響うんぬんのことはなさそうで・・・」

こう半藤氏は司馬遼太郎の文を引用したあとに
「これでみると、司馬さんも漱石の初期の作品群が好きらしいようである。『これが小説かというようなものを』とは『吾輩は猫である』であり、『坊つちやん』であり、『草枕』などであろうから。そういえば、司馬さんの文学も『その時代の様式』から『じつに度胸よく脱け出』たのもということができる。司馬さんが漱石を『一種の守護神』といった意味が、そこにあるのではないか、とそんなふうに思っている。」(「漱石先生ぞな、もし」単行本p289~290)

半藤一利氏の、これらの漱石関連本は、
夏目漱石の初期作品を高らかに評価した、その旗印が、じつに鮮明なのです。
それを、昔からの友人たちは嗅ぎ取っていたのだろうと推測するのでした。
それとも、やんわりと半藤氏の他の著作について語っていたのかもしれません。

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金地が剥落し。

2009-02-05 | Weblog
毎日新聞2007年に米本浩二氏の文で青木繁について4回連載が書かれておりました。

その連載の5月13日は福岡県久留米市の石橋美術館へ行っております。
「石橋財団が運営する石橋美術館は1956年開館。近代洋画の名品を常設展示する九州の私立美術館の老舗的存在である。西鉄久留米駅から徒歩で約10分。駅からバスもある。『海の幸』は国の重要文化財。縦70・2センチ横182センチの油彩画だ。大魚の陸上げが醸し出すイメージが壮大なだけに、実物を小さいと感じる人は多いのではないか。学芸課長の森山秀子さんは『もっと大画面でもよかったが、当時の限界でしょうか。布良で寄宿した民家は狭いし、東京の下宿も4畳半か6畳程度でしょう』と話す。・・」

ああ、そうなんだ。「海の幸」という絵は、期待して見にゆけば、案外実物を小さく感じるのだろうなあ。というのがわかるような感じがします。

絵「海の幸」を見る時に
もうひとつ忘れてはならない箇所が松永伍一著「青木繁」にありました。
それは、実際は「海の幸」の背地に金を塗りこめていたのだそうなのです。
初めて、知りました。では、それを語る松永伍一氏の文を引用。

「『海』や『海原』などは色彩の上であきらかに印象派と呼応するものがあるが、『海の幸』に金を配した青木の魂胆は、その昔、尾形光琳らが装飾技法を駆使したディレッタンティズムを借用することに通じていた。・・・いまは、その金地が剥落し色褪せて往時の迫力をやや欠き、その分だけ写実的様相を全面に出すことになっているが、私の推察するところ、蒲原有明が詩『海の幸』を書いたのは、背地の金がかきたててくれる精神の芳香のようなものに衝迫された結果だと言える。
  ただ見る、青とはた金の深き調和。――
  きほへる力はここに潮と湧き、
  不壊なるものの跫音は天に伝へ
  互に調べあやなし、響き交す
詩人に画家が詩を書かせることは、画家の勝利である。とりわけ、みずから詩人的に物象をとらえ夢想をほしいままにしてきた青木にとって、得も言われぬ愉楽であった。・・・・」(p30~31)

おいおい、
「いまは、その金地が剥落し色褪せて往時の迫力をやや欠き、その分だけ写実的様相を全面に出すことになっている」とは知りませんでした。今だ実物の絵を見ていない私ですが、こりゃ、見ない方が詩的喚起力を味わえそうな不思議な気持ちになります。まあ、何はともあれ、いつか見る機会にめぐまれますように。
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失意のときには。

2009-02-04 | Weblog
新聞で「生協の白石さん」が写真入りで登場しておりました。
ということで、読んでいなかった本を、さっそく古本屋へ注文。
いまなら、200円+送料150円できれいな本が買えました。
ちょうど、お安くて気楽な読み頃。

ということで、ネットの新聞記事を以下引用しておきます。



ベストセラー「生協の白石さん」(講談社刊)の著者、白石昌則さん(39)が、東京農工大(東京都府中市)の広報大使第1号に任命された。小畑秀文学長が22日、記者会見で発表した。

 白石さんは1994年4月、「大学生協東京事業連合」(渋谷区)を通して、早稲田大の生協に就職。2004年12月、東京農工大の生協に移り、学生が売店への要望や意見などを寄せる「一言カード」の担当となった。誠実に、時には軽妙なジョークを交えた回答が、学生のブログで紹介され、一躍有名人に。05年11月には、カードの内容と回答をまとめた本を出版した。

 昨年11月の異動で「東京インターカレッジコープ」の渋谷店長となったが、「せっかくの人材を活用したい」という大学側の要請に応じた。今後、大学のホームページに登場したり、講演会を開いたりする。

 白石さんは「肩ひじを張らずに、大学側に協力していきます」と語った。

(2009年1月22日21時53分 読売新聞)


ということで、読んだ本をすこし引用したくなりました。

『生協への質問・意見、要望』
   中間テストがやばかったので、単位があぶないです・・。
   生協で単位を売ってください!!

『生協からのお答え』
  中間テスト、お疲れ様です。当店へのリクエストの多い順TOP3としてなぜか①文具②菓子③単位と、存外にも単位が健闘しているのですが、当生協では、というより他の生協でも、単位の販売は致しかねます。次のテストで挽回して下さい!


もう二つほど引用。

『質問』
  山口くんの恋のなやみを聞いてあげてください。
『お答え』
  恋の悩みを聞くには、時には本人を奮起させる為に叱咤激励の意で、厳しく応対する事が望ましい場合もある事と思われます。我々生協にとって組合員はお客様なので、右記(ここでは上記)の様な接し方はできかねます。故に、適任ではないと考えられるのですが、如何でしょうか。


 う~ん。こういう距離感の滋味が、東京農工大学にじわじわと浸透していったのかもしれないですね。もう一つ引用。

『質問』
 もういやだ 死にたい
『お答え』
 生協という字は『生きる』『協力する』という字を使います。
だからといって、何がどうだという事もございません。
このように、人間は他人の生死に関し、呆れる程、無力で無関心なものです。
本人にとっては深刻な問題なのに、何だか悔しいじゃないですか。
生き続けて、見返しましょう!



そういえば、今年は、夏目漱石の「吾輩は猫である」を再読しようと思っておりましたが、第一章を見て、そのまんまになっております。昨日、ちょっと気になって半藤一利著「漱石先生お久しぶりです」(平凡社)を広げてみました。
そこに

「活字とはまことに有り難いものである。漱石が書いたもの、喋ったことなどがすべて本を通して、好きなときに読むことができる。『平時悠然、大事平然、失意泰然、危惧毅然、名利超然、毀誉恬然(きよてんぜん)』とは勝海舟のいった言葉であるという。含意のある語録とは承知しているものの、凡俗者としては簡単に失意のときに泰然というわけにはまいらぬ。そんな折に、わたくしは漱石先生とじっくりとつき合うのである。失意のときには『坊っちやん』を読み、毀誉褒貶に気持ちがゆれたりすると『吾輩は猫である』をパラパラとめくる。きまって漱石は何ごとか語りかけてくれる。」(p260)
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万能つゆ。

2009-02-04 | Weblog
お昼の番組で、料理の「万能つゆ」を紹介しておりました。
こういうのは、その時は聞いてわかったつもりでいるのですが、
すぐに忘れますね。書いておいたとしても、そのメモの在り処を忘れる。
こういう場合は、そうそう、ここに書き込んでおけばいいや。
では、万能つゆの作り方。

 昆布  2.5グラム
 かつお 20グラム
 
 どちらも、小さくしておく。
 昆布は、ハサミで小さく切っておりました。
 かつおは、手でもみながら細かく。
 そのほうが、ダシが出やすいとのこと。

 砂糖  大さじ 2
 塩   大さじ 1と、2分の1
 みりん 大さじ 2
 醤油  大さじ 4
 水   500ml

え~と。間違ってないかなあ?

まずナベに水。
つめたいうちに、昆布を入れる。
そして、かつお以外のすべてを入れる。
沸騰したら、弱火にして、かつをを入れて15分煮ます。
15分したら、冷ますのに15分。
それから、ボールの網に調理ペーパーを敷いて、濾します。
そのとき、あわてず、水切りをせずに、自然に染み透るのを待ちます。
手でおさえたりすると、苦味もいっしょに出てしまうとのこと。

あとは、瓶にいれて、流水で冷やし。
保存は、一週間ほど(もっとだったかなあ)もつそうです。

その万能つゆ 5 に白ワイン 1 の割合で西洋万能つゆ。
また万能つゆ 15 にゴマ油 1 の割合で中国風万能つゆ。 


まだ、ためしてはおりません。
必要と気分がむいたら、読みなおします。
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タマスと「海の幸」。

2009-02-02 | 安房
雑誌「太陽」1974年10月号は特集「画家青木繁」。
そこに、熊谷守一が「絵の友達青木繁」として談話を載せております。
それは、こうはじまっておりました。

「青木はねぇ、はじめ学校はいった時分は、自分が絵が少しばかりできるんで、なんでもできると思ったんです、費用なしで勉強できると。それがそうじゃないでしょう。下宿代も払わなくちゃ。そこが境目になって、本当は気がやさしいんですけど、もう怒っちゃったんですね。で、威張ることを覚えて。・・・・青木みたいに銭なしで無茶苦茶やって、しかも絵が好きで沢山描きましたからね、おかしなもんだ。あれあたりまえにしてちゃあ絵なんか描けやしない。私の友達の絵具箱持って旅行に行っちゃったりして、青木の言い草がね『あれが描いたより俺が描いた方がいい』ってんですわ。まあ、青木流のね、貴族だから。とられた方が『俺、絵下手だし、青木の方がいいけれど俺も絵が描きたいんだ』といって怒っていた。四、五年経ったら『まあ仕方がないわ』といってましたが。
しょっちゅう手紙もらってね。『大荒れの風凪ぎし後 海遠み 妹子(もこ)居る島に 松折れし』と書いた絵葉書が着いたんですよ。海岸に松があって風が吹いてんですわ。・・・」

どういう風な画学生だったのか。
「高村真夫は『熱心なる併しながら可なり怠慢なる真面目の画学生であつた』と評している。適切な評価である。頭がよかったこと、はじめから考えを定めて研究していたことなどをあげ、『他の画学生の様に絵にかぢり付いて唯コツコツと纏まるのを喜んで居る風はなかつた。何んでも絵を作る原則とでも云う可きものを片端から理論で考えてやって見ると云う風であった。夫が為め動(やや)もすると硬い冷たい絵が出来る事があった』(大正二年)と指摘している。その努力のし方は写実一点張りのやり方に疑問をもちはじめた結果であろうし、そのことはまたかれの天性の資質である文学好きと結びついてもいた。」(松永伍一著「青木繁」p67~68)

このくだりをもうすこし引用していきましょう。

梅野満男の証言とあります。
「青木君が学費は家庭の都合上二カ年四ヶ月にして絶えてゐる。此悲境に処した君が覚悟は洵にいぢらしいものであった。自己生活の苦闘と芸術上の煩悶とは潮の様に押寄せて来て一波一波険悪の状態を加ふるのみである。此狂涛を押し切って進んだ青木君の姿は勇ましくもあり痛ましくもあった」(p72)
「『其の頃の青木君は鼻緒のゆるんだ、歯を片高にすりへらした下駄をコロつかせながら、異臭を放つ着物に僕の古袴をはいて僕の古帽子を被って超然たる態度で、例の顔をあふ向けて大道を闊歩した。学校に行くにも古袴で通している青木君は元来身体の代謝がひどく汗や油が出る痰を吐く、手を擦すると垢がごろごろする。それを指で丸めると云う癖があって、よく物を汚す指紋を付ける』。久留米地方では、こういう態度や身なりを『ふぞろっか』と言い軽蔑していたが、上京して赤貧の中にいると気位も何もあったものではなく、手足の垢を丸めて遊び、自分の臭いさえ気にならなくなっている画学生となっていた。銭湯に行ってインバネスを取ったら素っ裸であったという話も、かれにとっては驚くことにはいらなかったらしい。汚れた下着をつけていない方が臭味は少なかったかも知れない。」(p73)

ここに「インバネスを取ったら素っ裸で」とあります。
ここから、房州の布良へ行った夏の旅行を思い出してみたいのです。
相撲取りはマワシをしめているのですが、漁師町の夏はフンドシか、裸でしょう。
その漁師町というのは、どんな風があったか。
たとえば、谷川健一著「独学のすすめ」(晶文社)にこんな箇所があるのを思い出しました。

「渚はふつう学問の対象になりにくい。しかし自然を相手に生きる人間はそこを大切に思うから、渚は重要なのです。私は小学生のとき故郷の熊本県水俣で朝早く浜辺にいって、地引き網を引いている漁師から雑魚を分けてもらった経験があります。そこに居あわせたものには、魚獲物を分配する習慣が日本各地でおこなわれていました。魚獲物は海神の贈り物であるから、それはひとり占めにしてはならず、すべての者に平等に分配しなければならぬという思想が古代から綿々と受けつがれているからです。分配したものを、めいめいが受けとる、その取り分をタマスといいます。柳田(國男)はタマスはタマシイとか賜うという言葉に由来すると述べています。そこに居合わせた者ももらうのを見ダマスといいます。私の場合は見ダマスだったのです。私はそこで平等という観念を教えられました。学校で教師から習ったのではなく、幼年時代、浜辺で漁師から習ったのです。」

青木繁は、布良の海に水中眼鏡でもぐっていたとあります。
そこから、豊富な魚介類を気軽に採っては食べていたのだろうと想像できます。
そういえば、「海の幸」は収穫した魚を分かち、凱旋している人達の姿が描かれております。貴族趣味で、しかも貧乏していた青木繁が、房州の布良でのひと夏をどのような充実した気持ちで過ごしていたか。その夏を着物の心配もいらず、食事の心配もいらず。布良の雰囲気にひたりながら、それを昇華するように絵筆をもって、タマスとしての「海の幸」を描いていたのではないか。またしても実物の絵を見ないで語る私でありました。
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貧乏画学生。

2009-02-01 | Weblog
松永伍一著「青木繁 その愛と放浪」(NHKブックス)に
こんな箇所がありました。福田たね、との恋に触れながら、
「いくつかの『海』の連作、『海景』、そして問題作『海の幸』が、房州における産物であった。言い換えるなら、それは布良がかれに描かせたものでもある・・」
と布良という地について書いておりました。
さてっと、青木繁の作品「わだつみのいろこの宮」については、松永氏はこう書いております。
「『わだつみのいろこの宮』は、気迫のこもった青木繁の自信をもった筆さばきで仕上がっていた。知られている話だが、この作品を描くきっかけは日本美術院の画家で歌人の安江不空の話からつかんだと言われるが、あの房州布良で青木繁は水中眼鏡をつけて海底にもぐったりしているうちに、日本神話に出てくる海底宮殿のイメージをつかんだことにはじまり、父の病気見舞いで久留米に帰っていたとき、長崎まで足を運びそこで潜水器を借りて二百呎の海底にもぐってみて、海中の世界を描く下地ができあがったらしい。これまでに海中を画の題材とした者はほとんどない。かれは神話をつぶさに研究し、画家というより国文学者のような微細な調べ方で絵の構図をまとめてみた。だから、計算が行き届いてどこか知的な冷やかさが出て来る。・・・・時間をかけて練りあげていくうちにイメージが弾力を失っていく悪い傾向がかれの中にいつも用意されていた。『海の幸』には動きがあるが、『わだつみのいろこの宮』は静止している。構図を考えぬいて幾何学的な思考を押し進めた結果、図柄のおもしろさの割に人物たちが硬くなってしまった。」(p104)

ところで、房州の布良に旅行に来る前も、妙義・信州へのスケッチ旅行をしておりました。
そこで青木は「坂本は、その誘いを受け、金はないが大丈夫か、と念を押した。『みんなどうせないんだ。無銭旅行というのも味なものだぜ』と青木は扇動しなが小諸義塾には不同舎の先輩の丸山晩霞がいるから何とかなる、といった調子で・・・」(p82)とあります。
そういえば、布良に来る時も、こうあります。
「高島の紹介状を持って布良を訪れた青木ら四人は、柏屋の近くの小谷喜六という漁師の家に泊まることとなった。いまの『民宿』である。おそらく高島は、かれらが貧乏な若い画家であることを手紙に書き、安く泊めてもらえる普通の家を斡旋してくれと頼んでいたのだろう。」(p15)
その貧乏ぶりは、熊谷守一の言葉でよく知れるのですが、ここでは省略して、
興味深いのは、旅館じゃなく漁師の家に泊めてもらって1ヵ月以上いたということなのです。水中眼鏡も、おそらくその家でかりたのではないでしょうか。
布良から出した青木繁の手紙のなかには、魚の名前がズラズラと並んでおりました。そして、手紙の列挙の後の方には、

    磯辺では
  タコ
  イセエビ
  メチダイ
  メジナ
・ ・・・・
アワビ
ハマグリ
タマガヒ
トコボシ
ウニ
イソギンチャク
ホラノカヒ
サザエ
アカニシ
ツメガヒ
・ ・・・

 と海産物の列挙がありました。どう思いますか。
青木繁は、水中眼鏡でたとえば、サザエやトコブシ、ハマグリやアワビを採っては
、布良の夏の海岸で、それらを皆で食べていたのじゃないでしょうか。
いまじゃ、資源保護に漁業権とかありますから、地元漁師しか採れないでしょうけれども、明治のその頃なら、水にもぐらなくとも、潮が引けば豊富に、それらが、採れたことでしょう。
そんなことを思いうかべながら、『海の幸』の夏を想像してみると、また別の感慨が浮かんできたりします。
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