和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

そういうものではない。

2019-11-26 | 本棚並べ
板坂元著「続 考える技術・書く技術」(講談社現代新書)
を本棚からとりだしてひらく。
こんな箇所がある。

「ちょっとした読書家なら、
おなじ本を何回も読み直す率は
買い入れる本の10パーセントくらいのはずだ。
残り90パーセントは本棚で眠ってしまう。」(p61)

これは、「切り抜き」についての箇所でした。
そのあとに、
「旅行などに行くときに、読み捨てのつもりの文庫本など
を持参して、片っぱしから破りとるのは一種の爽快感を
さえ伴う。いちど実行すると、あとはこだわりなくやれる
ことなので、ためしにやって見るとよい。」
こうつづきます。

う~ん。これができない(笑)。
台風の雨漏りで本がふやけて、カビが生えた時は
(いまだ、乾燥させても捨てられない私がおります)、
本とのつき合い方を考えさせられる事態でした。


そうそう。谷沢永一著「自作自注最終版 紙つぶて」。
これも、水を吸いました。買い換えようとしたのですが
(これは私の、読み直す10パーセントの本にはいります)、
古本でも値段が安くなっていない。しかたない(笑)。
ふにゃふにゃ本でも何とか読めるので、十分に
乾燥させて、本棚に立てかけることにしました。
カビがちらほら。

思い浮かんだのは、
菊池寛の学生時代のエピソード。
友人がトイレで本をひらいていたら、
便器の下にポトンと本を落としてしまった
(はい、当時は水洗じゃなく汲み取り式です)。
菊池寛は、その本をもらってもいいか、
と言ってもらいうけ、とりだし、水をかけて、
外で乾燥させてから、さておもむろに
古本屋へともっていったそうです。

うん。へんな連想をするものです(笑)。
最近の、アマゾンなどのネット古書では、
新刊書なみのきれいな本が安いので、
菊池寛の時代とは違っております。

話がそれていきます。
「おなじ本を何回も読み直す率」という発想は
わたしには、ありませんでした。いまでも、
すぐ、ちがう本へと目移りしていきます。
落ち着いて読了できないタイプ。

はい。わたしのマイブームは『京都』。
京都とあれば、安ければ買っております。
読まないくせしてね(笑)。
うん。10パーセント。10パーセント。
10冊のうち、1冊ものになれば、それでよいよい。
と、もう決めております。

こういうのを後押ししてくれる文がありました
(と、勝手にきめつけております)。
それは、1971年に「京都大学学園新聞」に掲載された
梅棹忠夫の「文献探索の訓練を」という全集で
3ページほどの文でした。
さいごは、そこからの引用。

「一般論的にいえば、今日の学生たちは、
知識を受容する能力はなかなかたかいけれど、
自分からすすんで知識を獲得する能力となると、
はなはだ無能である、といってよいだろう。
まるで訓練ができていないのである。
   ・・・・・・・・

だいたい、文献を『たぐる』ということを
しらないのには、まったくおどろかされる。
自分の関心をもったことがらに、ちょうど
ピッタリあう本があるにちがいないと
おもいこんでいるようだ。
本というものは、そういうものではない。
なにごとについてもしりたいとおもうなら、
まず一冊、手がかりになる本をさがしだす。
それをもとにして、しだいに関連文献を
『たぐり』よせるのである。そのうちに、
重要な本とつまらないものとの区別がついてくる。
さらにくわしい知識の所在がわかる。
あたりまえの手つづきだとおもうのだが、
そういう努力をやらずに、いきなり
エッセンスだけをおしえてもらおうとしても、
知識は身につくものではない。

全体に、知識に対する今日の学生の姿勢は、
かなり受動的になっているのではないか
という印象をうける。知識というものは、
料理にたとえるならば、『すえ膳』で
自分のまえに提供されるものではないのだ。

自分で、方針をきめて、材料をさがし、
料理して、自分で構成してゆくものなのだ。
・・・・」(p195~196・梅棹忠夫著作集第11巻)

ということで、読もうとして、そのままだった、
梅棹忠夫著作集に、すこしもどれました(笑)。

「京都」本での、『たぐり』よせるレッスン。
紅葉の京都なので、GOOブログのなかで
京都へ行かれる方のブログ写真を拝見しながらの、
京都へのレッスンです。











コメント (2)
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