和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

アー。ドスコイ。ドスコイ。

2019-11-15 | 詩歌
子どもの頃、そばの小山をのぼると、そこに
土俵があったという話を聞いたことがある。
中学一年の二学期に統合中学の校舎ができ、
そちらへと移った。すると、新しい先生が来て、
新しく相撲部をつくり、講堂脇の野外に土俵ができた。
けれど、その先生が転勤するともう相撲部もなくなる。

そういえば、神輿を担いで、
途中途中の駅の前とかで、休憩する際に、
相撲甚句で輪になって回りながら、お相撲さんの
手振りさながらにゆっくりと踊るのは、いまでも
演目に加えられています。

さてっと、宮本徳蔵著「力士漂泊」(小沢書店)に
こんな箇所があり、印象に残ります。

「相撲はモンゴルでの発生の当初より、
野外で演じられる放浪芸であった。
明治42年、両国回向院の墓地の西側を
整地して旧国技館が建設されるまで、
屋根の下でおこなわれたためしはない。

本場所のつど小屋を掛け、
桟敷と大衆席を臨時に作って、
千秋楽とともに撤去した。
雨や雪に遭うと否応なしに休日で、
力士の食い扶持にも難渋することさえあった。
しかも会場も容易に一定せず、市ヶ谷長竜寺、
茅場町薬師、湯島天神などの境内を転々とした。

まだ本場所の回数が少なかったころ、
力士たちは一年の大半を巡業の旅の空で過ごさ
ねばならず、それがまた苦労のともなうものだった。

 アー アー 当地興行も本日限りヨー
 アー ドスコイ ドスコイ
 アー 勧進元や世話人衆
 ご見物なる皆さまよ ハイ
 いろいろお世話になりました
 お名残り惜しゅうは候えど ハイ・・・
 せっかく馴染んだ皆さまと
 今日はお別れせにゃならぬ
 いつまたどこで逢えるやら ハイ
 思えば涙がパラーリパラリと

現在でも歌いつがれる相撲甚句が、
その哀愁を素朴な調べでよく伝えている。」
(p85~87)

そういえば、地元の田舎神輿は
ゆっくりと、キタ節を歌いながら、担ぎます。
いろいろ歌うそのなかに

 今日は嬉しや 皆さんと一座
 明日はどなたと 一座やら一座やら

こうして、一年に一度の神輿渡御を練り歩きます。
もっとも、私はもう担がしてもらえず。交通係(笑)。

もどって、対談「ふれあう回路」で
鶴見俊輔氏が紹介していた
川喜田二郎の「素朴から文明へ」という文を
わたしはまだ読んでいない(笑)。

せめて、鶴見さんの対談での言葉を引用して
この回の締めくくりとすることに。

「ここではポンと飛んでこう言うのですよ。
『素朴よりも文明のほうがはたしてよいものとか、
価値が高いものかどうかなどということは、けっして
自明のこととして前提されてはならない』。
ここからあとは、評価がむずかしい問題だから
わかりませんが、
彼(川喜田二郎)は日本にまだ見込みがあるのは、
日本はまだ文明じゃないからというんですよ(笑)。
素朴なものが残っているから、
完全に文明化していくと、小集団のなかでの
やりとりがつぶされてしまうので、血の通った
コミュニケーションがなくなってだめになる。
・・・」(p33~34)

はい。つぎは
川喜田二郎の「素朴から文明へ」を読まなきゃ(笑)。


コメント
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