和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

おけら詣り。

2019-12-14 | 京都
京都千年②「寺と社」(講談社)は古本で300円。
さてっと、八坂神社の箇所をひらいてみる。

「御霊信仰の社」と題する大久保郁子の文。
そこから引用。

「賀茂社の創立に遅れること約200年、
京都市民の生活に大きな影響を与えることになる
神社が誕生した。祇園社がそれである。

貞観18年(876)平安京の町に疫病が猛威をふるった。
そこで播磨国飾磨郡の白幣山から牛頭天王を都に勧進し、
疫神を制御させようということになった。・・・・・・」

うん。こうはじまっているのですが、
詳しいことは、飛ばして(笑)

「四条通の東のつきあたりに、
東山を背に切妻瓦葺の屋根の勾配も緩やかに、
八坂神社の西楼門が建っている。京都の人々から
祇園さんと呼ばれ親しまれてきたこの神社がなかったら、
随分京の街も変っていたことだろう。

四条通の賑いもなく、祇園祭もなく、
おけら詣りもないので、一年の始まりの
雑煮をおけら火で焚く風習も生まれなかったわけだ。」

はい。引用はここまででいいのですが、
せっかくなので、引用をかさねます(笑)。

「・・時の摂政藤原基経が邸宅を寄進して
壮麗な社殿を造営させたのだが、
海の向うで須達長者が釈迦のため祇園精舎を
建立させた故事を意識してのことかもしれない。
かの地の祇園精舎も牛頭天王を守護神として
いたからである。祇園の社と呼ばれ、

疫病よけの神として、戦乱や悪疫による疲弊から、
京の町をよみがえらせる力ともなった。

明治の初期まで仏殿や多宝塔、僧坊が建ち並び、
寺名を感神院といったが、神仏分離令により
感神院は廃され、八坂神社と社名を改めた。・・」
(p154~P155)

ところで、
『京のおばんざい』(光村推古書院)のはじまりは、
「おぞうに」という2頁の文(秋山十三子)からです。
そこに、『おけらまいり』がありました。

「おおみそかの夜は、
いてつくような冷気のなかを、
八坂神社へ必ずおけらまいりに行く。

人波にもまれながら、長い長い
縄に神前の火をうつし、
クルクルまわしながら帰ってくる。
除夜の鐘の音が、
あちこちからひびいてきた。
 ・・・・・・・・
元日の朝は若水をくみ、
四方を拝し、つつしんで
神さまの火でおぞうにを炊く。
戦前までこの風習は固く守られ、
それは男の役目であった。」

うん。せっかくなので(笑)、
秋山さんの文のはじまりを引用。

「京都のおぞうには白みそ仕立て。
神仏にお供えするのに、
なまぐさをつつしんで、
おこぶだけでだしを取る。
なかに入れる具は、まるいあも(小もち)、
おかしら、ぞうに大根、こいも。
今年一年、まるう、人さまと争わず、
出世してかしらになるようにと、すべては丸い。
 ・・・・・・・
お正月の朝三日分を、暮れの三十日か、
おおみそかのうちに、むすか、ゆがくかして用意し、
まっさらのいかきに入れて、
まっさらのふきんを掛けて戸棚へ。
・・・」

はい。わたしに印象に残ったのは、
『疫病よけの神として、戦乱や悪疫による疲弊から、
京の町をよみがえらせる力ともなった。』
という箇所でした。
それに連なる、おけら詣り。





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金時にんじん。

2019-12-12 | 京都
京都関連の古本を買っていると、
京都の料理の本に、どうしても出あう(笑)。

京都の庭園の本とか、
京都の料理の本とか、
買わないようにする。
う~ん。
それでも、ちょっとは買ってみる。
「京のおばんざい」(光村推古書院・2002年)は、
古本で300円でした。

その「12月」のページをひらくと、
「堀川ごぼうと金時にんじん」と題する2頁の文。
このまえ見た写真集で、印象に残る、
金時にんじんが登場しておりました。
そこから引用。

「・・・お煮しめにはまた、
金時にんじんも欠かせない。
上鳥羽あたりで作られている。
赤い赤いにんじんである。
金時さんのように赤いので、
その名がついているのんやろう。
よその方はびっくりしやはる。
これもじきがつおで
くっつりたいて、
舌にのせると、
歯ごたえはあるのに、
やわらかい。

このにんじんは、かやくご飯にも、
かす汁にも入れるし、
おなますの色どりにも、
もみじおろしにもまぜる。
真紅の色がはなやいで、
だいだい色の西洋にんじんとは、
また、別のおもむきがある。」

はい。この短文のはじまりも引用しなきゃね(笑)。

「京都特産の冬のお野菜は、
聖護院かぶらに聖護院大根、
中堂寺大根、九条ねぎ、壬生菜、
くずき・・・・など、まだあって、
堀川ごぼうもそうである。

秀吉の死後、聚楽第はさびれて、
お堀へは、近所の人がごもく(ごみ)を
ほかす(捨てる)ようになった。
そしてある日、気がつくと、
そこにはごんぼが生えていた。
太うて、まん中がほんがら(空洞)に
なっているごぼうである。
地名をつけて堀川ごぼう、
また、聚楽ごぼうともいうた。

堀川ごぼうは、まん中の空洞へ
かしわを詰めたり、
おさかなのすり身をつめたりして、炊く。
長いままで煮ふくめたのを、
輪切りにして盛り合わすと、
これは料理めいたものになる。
・・・・」

この短文の最後には、こうありました。

「けれど、堀川ごぼうは、
もうめったに見かけんようになった。
作る人も、作る地所も減ってしもうて、
いまはわずかに洛北・一乗寺のあたりで
作られていると、耳にした。
そのごんぼは、もはや
わたしたちの暮らしとは無縁のもので、
高級料理の珍味になっている。
京の土に生まれ育った
堀川ごぼうを、
もういっぺん、
おぞよにしてみたい。」
(p278~279)

忘れないように、
「あとがき」引用。

「光村推古書院さんから、『おばんざい』を
復刻出版したいというお話を頂いた・・・・
   ・・・・・・
思い返せば昭和38年の初冬。
木村(しげ)さんから話が持ち込まれました。
  ・・・・・・・
木村さんはわたし(平山千鶴)に相談してきました。
木村さんは『婦人朝日』の投稿作文欄を母体にした
京都の集まりの中心でした。わたしはその仲間の一人でした。
  ・・・・・・・・・
昭和39年の1月4日から、週二回『おばんざい』は
紙面に載り始めました。わたしたちはこの欄を、
ただのお料理の手引きにしたくないと思いました。
戦後急激に変わってゆく町の暮らし、
忘れがちになり、消えてゆくしきたりも
合せて書きたいと思いました。
そして期せずして、
しまつで辛抱強いが、妙に醒めて、
少々いけずな京おんなの気質も
吐露してしまいました。・・・・」
(P288~298)

この本の、シャキッとした、かくし味とは、
『少々いけずな京おんなの気質』でした。

著者は、秋山十三子・木村しげ・平山千鶴。
となっておりました。





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賀茂川の水。双六の塞。山法師。

2019-12-11 | 京都
古本で京都とあれば、買ってしまいます(笑)。
今回は、すこし考えてから買いました。
「京都府警察史」第一巻。
この第一巻は「平安時代から幕末まで」。

うん。私はきちんと読みはしません(笑)。
でも、調べごとには、重宝しそうな一冊。

さっそく、気になっていた箇所をひらく。
それは、白河院の言葉でした。
「白河院をして『天下三不如意』と嘆かせたもの」

「白河院は賀茂川の水、双六の塞、山法師、
これぞ朕が心に随はぬ者と、
常々に仰の有るとぞ申伝たる(源平盛衰記)」

これを「京都府警察史」では、
どのように解説をしているか、
興味をもちました。以下引用。

「賀茂川の水とは大雨後の川の氾濫によって
多くの死傷者を出して悩まされたことであり、

双六のさいとは、さいころの目を思い通りに
出せないという意味以上に、当時、さいをつかった
博奕が諸国に流行したことをいう。

永久二年(1114)五月、白河院は近ごろ双六が
諸国に流行しているので、これを行う者はたとえ
院の下部であっても逮捕するよう命じているが、
ほとんどその効果はあがらなかったという事実は、
これをよく表現している。・・・・」

「また山法師とは、直接には比叡山延暦寺の僧兵
のことをいっているが、そのほか、興福寺などの
大寺院を含めて、南都北嶺の僧兵の強訴に
手をやき悩まされたことをいう。」(p208~209)

記述はつづき、さらに具体的で興味をそそります。

さてっと、今年は台風15号と台風19号とつづき、
その被害は、身近な出来事としてありました。
ということで、気になる水ということで、
「賀茂川の氾濫」について引用。

「賀茂川の氾濫は、平安中期から末期にかけて
次第に増加してきているが、
これに二つの原因があったといわれる。

その一は、京都市中の発展によって、
多量の建築用材を必要とし、そのため
賀茂川上流の森林が濫伐されたことによるもの。

その二は、河道が地勢的に無理があったことによる。
このことは、高野川と賀茂川は出町附近で合流しているが、
もともと京都の地勢は、東北に高く西南に低い状態を
形成しており、出町までの賀茂川の流れは、その
自然の流れに逆らっているといえるのである。

これは今の堀川が、賀茂川の本流をなしていたものを、
平安遷都のとき、都の中央を大きな川が流れるということは、
都市の区画、交通などの点からも都合が悪いというので、
上流の上賀茂付近で新しく河道をつくって、
水量の大部分を高野川に合流させたものと考えられ、
この不自然な流路変更に原因があったものといわれている。

平安初期葛野(大堰)川の防葛野河使とともに、
賀茂川にも防鴨(ぼうが)河使がおかれ警戒にあたった
・・・・・が、十分な効果は期待出来なかった。

現在四条通南座東(四条大和大路東入)にある仲源寺の
目疾(めやみ)地蔵も、本来雨止(あめやみ)地蔵であったものの
転訛といわれ・・・・
また二条城の南に神泉苑があるが、平安時代はここで
しばしば、祈雨や止雨の祈祷が行われた・・・・・
貞観11年(869)の夏に行なわれた最初の祇園御霊会も
神泉苑で疫病退散のためおこなわれたものであった。」
(~p210)

さて、このあとに

「賀茂川の氾濫以上に悩まされたのは、
南部北嶺の僧兵の強訴であった。
これは院政によって必然的に起こった現象であって、
院政期における最大の難問題であったといえる。・・・」

はい。「賀茂川の氾濫以上に悩まされた」
というのはテーマが重いなあ。
日をあらためて取り上げたいと、思います。





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草を喰む。

2019-12-10 | 京都
古本のたのしみは、
写真集が、思いのほか安く手に入った時(笑)。

今日届いた本は
『草を喰む 京都「なかひがし」の四季』
(プレジデント社定価5000円+税)。
本のサイズは、
縦30.5センチ+横21.5センチ+厚み2センチ。
古本の値は500円なり。
申し訳ないけれど、ワンコインで
京都野菜のフルコースをいただいている。
そんな贅沢な気分になれる一冊。

はい。写真と文章なので、あくまで気分です。
目次のまえの文章は、こうはじまっておりました。

「『これが手前どものメインディッシュでございます』。
食事の締めに出されるご飯に必ず添えられる中東久雄の
言葉に、初めての客は思わず笑みを浮かべる。
だがこれは、決して笑いを誘うような洒落言葉では無い。
まさしく真情の吐露なのである。

美味しいご飯を出す為だけの店を開きたい。
そう願い続けた中東と、
美味しいご飯を炊く為だけの土鍋を作ろう
としていた中川一志郎との出会いが
今日の『なかひがし』を生んだ。・・・・」

写真集のうしろの方は「冬」の食材。
金時人参(京人参)が4~5本泥つきで
写っております。そのコメントには
「大原の畑で朝穫れたばかりの金時人参・・・」
その隣ページには、白葱。
こちらも泥つきで石畳に姿よくおさまっております。
「大原の葱博士・坂田さんがつくった白葱。
香り豊かで、まじりっけのない辛味が際立っている。」
というのが白葱につけたコメント全文。
あと、長大根と丸大根と各1ページで
泥つきで、きれいな姿で写っております(笑)。

中東久雄の人物紹介欄は、こうあります。

「1952年京都市北部、花背生まれ。
生家は古刹・峰定寺門前の宿『美山荘。
摘草料理を考案した亡兄吉次氏のもとで、
料理を担当。・・・」

峰定寺(ぶじょうじ)の一宿坊として始まった『美山荘』が
京都東山・銀閣寺畔に、97年開店。

はい。こういうのを食べられるような人に
なりたいと思えてくる一冊なのでした(笑)。









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岩田温の一問一答。

2019-12-09 | 道しるべ
ユーチューブの岩田温さんの
一問一答が面白かった。

はい。私は岩田温さんの本はもっておりません。
ですから、ユーチューブでのお話がはじめてです(笑)。

さてっと2019年12月6日の
「岩田温の一問一答 
 学生からの質問になんでも答えます」
これが、印象に残ります。
その箇所を活字で再現してみます。

大学一年生になった岩田さんが、
尊敬する長谷川三千子氏の講演会のポスターを
貼っていると、翌日そのポスターがはがされている。

繰返すうちに、核マル派とおぼしき連中が、
貼るそばから、はがしてゆくのに気づく。

そこで、岩田氏が「思想信条の自由とか
基本的人権とかあるんだから、そういうのをするのは
やめろ」というと、
相手は、
「右翼が人権とか言うな」といわれ、
世の中には、すごい論理があるなと、
びっくりしたのを覚えていますけれど・・・

という、不思議な体験を学生にむかって語っております。
これが、「サヨクとの戦いの前兆」だったとしております。
そこをつけたしながら、
「マルクーゼの抑圧的寛容」という言葉を出して、

「自分たちの自由はあるんだ。
しかし、お前たちの自由はない。」

「右翼の自由はうばえ、
左翼の自由はどんどん増やせ。」

という、むちゃくちゃな体験のはじまりを
学生に語っておりました。

はい。地方の居酒屋さんで語っていたら、
女将さんに『落語家さんのかたですか』と
勘違いされたような語り口でもって、
つぎつぎに学生の質問に答えてゆきます。

うん。これを引用したくって、
もう一度、ユーチューブを再生しておりました(笑)。

うん。毎日更新して、
さまざまな、テーマをあつかい。
ホワイトボードに書いて、
短いコラムのような時間で、
講義をなさっております。
うん。最近毎日見ています。




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みうらじゅん㏌京都。

2019-12-07 | 地域
例によって、
お小遣いを手に駄菓子屋に向う子どものように、
ネット古本屋で、京都の関連本を漁る私です(笑)。

今回手にしたのは、200円の
みうらじゅん「マイ京都慕情」(新潮社)。
京都とつかなければ買わなかった一冊。

カバーの経歴をひらくと
「1958年京都府生まれ。イラストレーターなど。
武蔵野美術大学在学中の1980年に『うしの日』
で『ガロ』新人賞に入選、漫画家デビュー。・・・」

そうなのか。みうらじゅんは京都生まれ。
この古本は、各ページに写真や漫画がたっぷりの
お得な、みうらじゅん入門書となっておりました。
パラパラとめくると、興味をもったので、
角川文庫『見仏記』(いとうせいこう・みうらじゅん)。
新潮新書『マイ仏教』(みうらじゅん著)。
この二冊を注文することに、
それが今日揃いました。

ここでは、『マイ仏教』のまえがきから引用。

「私自身は『一人電通』と称して、
マイブームの赴くままにいろいろ
なことをしている人生であります。」

「子どもの頃から一貫してブームで
あり続けているものが、仏教なのです。」

「中学と高校は、京都にある浄土宗系の
学校に入学しました。いわば、坊さんへの
エリートコースを進もうと思っていたのですが、
そこでロックやアートと出会うことで、将来の夢は
微妙に軌道修正されていきました。」

「小さい頃から好きで、登下校時にずっと
口ずさんでいた般若心経。・・・」


はい。これくらいで、みうらじゅんの外見との
ギャップが浮き彫りになってきます。
ありがたいのは、安い古本なり(笑)。

「ビーナスの誕生」に衣を着せたような、法隆寺百済観音像。
それを、みうらじゅんは
「法隆寺の百済観音像は、ボディコン・ギャルのルーツ」
と指摘し、表現しております。
角川文庫「見仏記」のp33には、みうらじゅんの
イラストと共に『百済観音像はボディコンのルーツ、也。』
と説明見出し。そのページの文字には

「法隆寺の百済観音像は六本木のイケイケギャルの
着ているボディコンシャスのルーツである。
体のラインもあらわに、百済観音像は立っておられる。
仏像界ではボディコンの他、シースルーファッションなども
先がけておりその色気は現代にも伝えておられる。
しかし、重要な点はボディコン・ギャルの中身であって、
『仏作って魂入れず』とは全くこの事である。」

はい、小さい頃から般若心経を口ずさんだだけあります。
年季が、われわれとは違う。

ということで、もどって
みうらじゅん『マイ京都慕情』(新潮社)には、
京都のお寺や、仏像の写真やら学生時代の
みうらじゅんの写真やらがベタベタと絶妙な
配置で並んだ中に、1頁だけイラスト
「みうらじゅんの日活ロマンポルノ」(p82)が
あるのでした。
このページは欠かせないのだと、
『見仏記』の引用したイラストを見ると
フムフムと納得している私がおります(笑)。






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東山魁夷『年暮る』。

2019-12-05 | 京都
古本で買ってあった
東山魁夷画文集5「美の訪れ」(新潮社)をひらく。
最初の30頁ほどに絵画が載せてあり、
あとは、東山魁夷の文です。
目次の最後に「京洛四季」という文がある。
絵の連作「京洛四季」にあわせて書かれたものでしょうか。

そこから、引用することに。
「冬の北山杉」と題する文はこうはじまります。

「冬は北山から来る。洛南のほうではよく晴れた日に、
遥かに連なる北山が、群青に翳り、また明るく照り
・・・・」(P286)

はい、他も引用したいので、ここまで

「冬の寺」は、こうはじまります。

「年の暮れの近づく錦小路の混雑、南座の顔見世の提灯。
都の町中の雑踏をよそに、北山に雪が降って、厳しい寒さ
を迎えようとしている。この頃、寺院を廻るのは楽しい。
  ・・・・・・
私は少年時代を神戸で過したから、京都へは時々行った
ことがある。もっとも、その頃は、両親に連れられて行った
ことが多かったのだが。私は奇妙なことに子供の時から
旅に出ることが好きで、夏休みはいつも半分くらいは
淡路島で過ごしていた。一人で奈良へ行って仏像を見たり、
この時のように京都へ来て博物館や寺院の絵を見たことが
ある。画家になりたいと思っていた。その少し後には、
画家はやめにして、本屋になりたいと思ったのだが・・
  ・・・・・
冬の日に寺院を廻ると、静かなたたずまいの中に、
すべてのものが生き返ったように見える。」

そして最後の文は「除夜の鐘」でした。

「八坂から円山公園に出ると、知恩院の鐘が重々しく
響きをこめて、除夜の第一声を伝えてくる。
山門を入ると、その音は身内に響くように近づく。
おおぜいの人々が、鐘楼のある小高い岡へ登って行く。
私はそちらへは行かず、大方丈の階段を昇った。
・・・・・そのまま縁に腰をおろし、向いの岡の木蔭から
響いてくる鐘の音を聞いた。・・・・・・・

この寺の巨鐘は撞木に十一本の引き綱をつけ、
そのはじをめいめいの人が持ち、親綱を握る僧は
その人々に向い合った姿勢で立つ。
掛け声と共に呼吸を合わせ、手足に力を籠め、
のけぞるようにして撞くという。
私は眼を閉じてその光景を想像しながら
鐘の音を聞いている。・・・・・」(~p290)

そういえば、杉本秀太郎著「平家物語」(講談社)
というのが、本棚にあった。1996年第一刷発行とある。
新刊で私は買った覚えがある。読んだ覚えはない(笑)。
表紙カバーは安野光雅。ステキなカバーです。
その本のはじまりは、こうはじまっておりました。

「『平家』を読む。それはいつでも
物の気配に聴き入ることからはじまる。
身じろぎして、おもむろに動き出すものがある。
それにつれて耳に聞こえはじめるのは、
胸の動悸と紛らわしいほどの、ひそかな音である。
『平家』が語っている一切はとっくの昔、
遠い世におわっているのに、
何かがはじまる予感が、胸さわぎを誘うのだろうか。
    ・・・・・・・
『平家』冒頭の誰でも知っているくだりは、
これから語り出されるものをよく聴き給えということを、
ああいう喩(たと)えで語り出したのである。
天竺というおそろしく遠い国の、奥も知れない
林のなかに埋もれてしまって、たしかめようもなくなった
祇園精舎から、どこからともなく吹く世外の風に乗り、
はるばる鳴りわたってくる鐘の声。・・・・」

うん。杉本秀太郎著「平家物語」は以下未読。

そういえば、東山魁夷の「除夜の鐘」は
はじまりが
「八坂から円山公園に出ると、知恩院の鐘が重々しく
響きをこめて、除夜の第一声を伝えてくる。」
とありました。
ここに「除夜の第一声」とありオヤッと思いました。
けれども、平家物語のはじまりは
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。」
とはじまっていたので、
鐘の声の、除夜の第一声であるわけですね。
と、ひとり合点します(笑)。

ちなみに、東山魁夷の連作「京洛四季」のなかに
京都の街に立ち並ぶ瓦屋根・瓦屋根の先に
寺院の大きな屋根があって、雪がそれらの全体を
おおいはじめていく風景を描いた作品があります。
題して、「年暮る」。
うん。いけません、連想が浮かびます(笑)。

いつか、この『年暮る』の絵の前に立ち、
その気配に聴き入っていると、降り積む雪の
音にまじって、『祇園精舎の鐘の声』が・・・。












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これから戦いになる。

2019-12-04 | 古典
え~と。戦いは戦いでも、
薩摩守忠度(さつまのかみただのり)の話。

「一ノ谷の合戦にはいろいろなエピソードもたくさんございますね。
敦盛と熊谷の話もありますし、薩摩守忠度の話なんかも、
あれは勅選の歌集へ入れてもらいたかったからですね。
自分の歌を、自分の和歌を二首それに加えてもらいたくて、
これから戦いになるというのに、陣屋から抜け出して
都へ届けに行っておりますね。『千載集』に、
朝敵のゆえに読人知らず、となって載っておりますね。
『さざなみや志賀の都は荒れにしを、昔ながらの山桜かな』。
志賀は近江のことですが、べつにうまい歌だとは思いません。

・・・ぼくは平家の軍勢ってそんなに差し迫った戦いとは
受けとっておらず、ここで負けると思ってなかったからだと
思いますね。この一ノ谷だけじゃなく屋島でも、壇ノ浦でも、
平家としてはじゅうぶん自信があったんじゃないかとね。」
(p138)

はい。中村直勝氏と村上元三氏の歴史対談『平家物語』(講談社)
から村上氏が語っている箇所でした。
もう少しつづけて引用。

「忠度のことですけれど、和歌を都まで届けに行ったというのは、
やっぱりこれは平家の息子たちの自信だったんでしょうね。・・・
じゅうぶん余裕があったんじゃないかと思います。
それだけまた陣中でゆとりがあって。白拍子をつれて行って
管絃をやらせたりしてじゅうぶん楽しんでます。

ところが源氏のほうは
とてもそんなゆとりはありませんわね。
もういのちがけで、負けたら都へは戻れませんし・・・」
(p139)

はい。いま現代に、薩摩守忠度を、さがすとしたら?
う~ん。誰と特定しては面白くないかもしれない。

「自信だったんでしょうね」と
「じゅうぶん余裕があったんじゃないか」
という、2つのキーワードで、
現代の世相を反映するそんな短文をこしらえよ。
という設問の国語のテストがあったりすると、
俄然国語が面白くなる。そんな気がします。

う~ん。先生にめぐまれればの話なのかなあ。

こんなことを思い浮かべたのは、今日産経新聞(12月4日)
の一面見出しを見たからでした。そこには、
「日本 読解力15位に急落」「15歳 国際学力調査」。

こうして、ブログを書き込んでいると、国語が気になります。

それはそうと、もどって、

「憲法9条があると、自信だったんでしょうね。」
「憲法改正など急がない、
そんなじゅうぶん余裕があったんじゃないか。」

と、私ならあてはめてみたくなります。
もちろん正解はひとつではないので、
あなたなら、どんな短文をつくるのでしょう?

何てことを思い描くと、ぐっと身近に、
薩摩守忠度(さつまのかみただのり)。



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平家の公達と祇園精舎。

2019-12-03 | 京都
「・・八坂神社がある。京では祇園さんで通っている。」
という京都育ちの方の言葉がありました。

祇園といえば、そういえば祇園精舎。
祇園精舎といえば、平家物語。
と、ここで平家物語を読み始めれば、
いいのでしょうが、そういう殊勝な心掛けは
私はもちあわせておりません(笑)。

さてっと、安い古本なので買ってあった
「歴史対談 平家物語」(講談社・1971年)をとりだす。
中村直勝(歴史学者)と村上元三(作家)の対談。

うん。京都という言葉をさがす。

中村】 平家が案外と早く滅びたということについては、
これはどうしても彼らがどんな教養を受けていたか、
ということとも関連してくると思うんです。
おそらく清盛の時代ごろになってから平家の公達らも、
少し気がついて一生懸命に教養をつけはじめたと思うのです。
ところが、一代ぐらいで教養をつけてもおっつきませんけども、
一応は平家も京都でお公卿さんなみの生活をしたと思うのです。
結局はそれで平家は武を捨ててしまったのだと思います。・・・
従って『平』の名を継いでいるような人は、源氏と戦争をしても、
本気で戦争をしていないんじゃないかしらん。
逆に戦争というものを楽しんでいたんやないかと思えますな。

例えば、のちの屋島の合戦のときなど、
那須与一に扇の的を射させたりしますけど、
あれを見ますと、どうも平家は真剣に戦争してたのかいな、
という気がしますね。戦争というものが生命をかけ、
家の将来をかけてやるものだと考えたのでしょうか。
遊びをやってるように思えますが、
つまりどうしても文弱に流れるんですな、京都にいますと。

文化の力は強いものです。大きいものですね。
頼朝はこの武士の文化化を非常に嫌うたのですね。
それから薩摩守忠度(さつまのかみただのり)にしても、
戦争の真最中に、私の歌をどうか勅撰歌集に入れてくれ、
などいって戦場から帰って来るなんて、
馬鹿々々しいじゃありませんか。これなんかどうもね、
一つの物語としては面白いですけど。

村上】 面白いです。平家の公達というのは、
武士になり切れず、といって、公卿の暮しが
体内に滲み込んでいるわけではなく、中途半端ですな。
忠度の話など風流ですが、戦争中それだけゆとりを
持っていた、と好意的にも考えられますが。

中村】 かりにも武士がねえ。・・・・・
やっぱり平家は『文』に負けてしまう。
教養も付け焼刃じゃあかんていうことですな、結局。
(p109~110)

うん。あとは木曽義仲の箇所も印象深い。
(p130~131)

はい。よろしく「付け焼刃の京都」を
このブログでは、つづけていきます(笑)。





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河原近ければ、水難もふかく。

2019-12-02 | 古典
東日本大震災のあとに、方丈記を読みました。
そのなか、浅見和彦校訂・訳『方丈記』(ちくま学芸文庫)は、
2011年11月10日第一刷発行で、新しかった。

今日は雨。降ったりやんだりの天気。
今年は、台風19号での川の氾濫が印象に残ります。
うちは海には近いほうですが、川の氾濫とは
縁がない地形です。

そういえば、方丈記には
火事や竜巻や地震が語られておりました。
けれど、水害についての記述はあっただろうか?
そう思って、この文庫の方丈記をひらいてみる。

「また、養和のころ・・・・
あるいは春、夏日照り、あるいは秋、大風、洪水など
よからぬ事どもうちつづきて、五穀ことごとくならず。
 ・・・・・・
これによりて、国々の民、あるいは地を捨てて、境を出で、
あるいは家を忘れて、山に住む。さまざまの御祈りはじまりて、
なべてならぬ法ども行はるれど、さらにそのしるしなし。
・・・・・・・・・・」(p22~23)


うん。ここも引用しておきます。

「わかがみ、父かたの祖母の家をつたへて、
久しくかの所に住む。その後、縁欠けて、身衰へ
・・・三十余りにして、さらに我が心と、一の庵をむすぶ。
 ・・・・・・・・
雪降り、風吹くごとに、あやふからずしもあらず。
所、河原近ければ、水難もふかく、白波のおそれもさわがし。」
(p28)

そうでした。方丈記は、はじまりから河でした。
水難の視点で、方丈記の巻頭をあらためて読みます。

「ゆく河のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつむすびて、
久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし。・・」


さて、この序章の箇所を、浅見和彦氏は評して、
こう記述しております。

「鴨長明(1155ころ~1216)は京都下鴨神社の神官の
子として生まれた。・・・・・・
 下鴨神社は平安京の東北のはずれに鎮座する。
北山の大原に水源を持つ高野川と京都市北方の
丹波高地に発する賀茂川のちょうど合流地点にある。
その場所がらからいってもよくわかるが、
平安京の水の祭祀を古くから行っており、
それに奉祀する鴨氏一族は水と川との関わりが深い。
下鴨神社の境内に広がる糺(ただす)の森は
常に静寂さにつつまれ、その中を御手洗川や泉川と
いった小川が静かに瀬音をたてながら流れていく。
夏の若葉、秋の紅葉がひときわ美しい場所である。

下鴨神社の神官の子として生まれた鴨長明は
この風景を見ながら育ったのであろう。
川は長明にとって終生忘れることのできない
風景であったに違いない。・・・」(p39~41)


はい。今は風はあれど、
雨は少しやんでおります。





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「京のお野菜」と「うんこさん」。

2019-12-01 | 京都
寿岳章子さんに
「京ことばのやさしさ・・・敬語」という文があります。
そこに、小学校の思い出が語られておりました。

「一般に京都の人は、いろいろなものに
いわゆる敬辞をつける。普通なら絶対に
つかないものに堂々とつける。

そのことを考えさせられたのは
私の小学生の頃であった。
私はそのとき友人二人と下校中であった。
同クラスの女の子たち。気楽な話をたのしみながら、
私たちはゆっくりと家路についていた。

あとの二人は生粋の京都っ子である。
商家の系統である。そのうちの一人が、
『うちうんこさん出えへん』と言った。
要するに便秘のことであるが、私は
のけぞって笑ってその子を困惑させた
ことを今なおはっきり覚えている。
・・私は両親が京都ではなく、
おまけに商い人ではない・・・」(p163)

こうして小学校の思い出を、きっかけに、
京ことばへの、考察へとつなげております。

「それはあくまで、京都的な『さん』であって、
暮らしに大切な存在であるものへの顧慮とでも
言いたい気持の表現ではなかろうか
そのことの有無が大変からだにとって
大切な存在であるからには、一種の敬意を払って
『うんこさん』と言ってもちっとも差し支えない。」(P164)

ここから、寿岳章子さんは食べ物へと
話題をふりむけておられます。

「ほんとうに京の人びとはおもしろいものに
敬語をつける。ことに食べ物関係に多い。
私もその辺のことばは日常的によく使う。
『いっぺんまめさんでも炊こか』
というような具合である。・・・・」

ちょっと飛ばして、次のページを引用。

「そういうふうに言って見せることによる
対外的メリットなどは何もない。・・・・
大豆や黒豆、うずら豆などを丹念にそれこそ
愛をこめてふっくりたき上げるとき、自然と
『まめさん』、あるいは『おまめさん』と言ってしまう
という感じである。
大根、なす、かぼちゃ、ここでふと思われるのは、
京都は名だたる野菜の産地であるということである。
・・・山科なす、鹿ケ谷のひょうたんかぼちゃ、堀川ごぼう、
九条ねぎ、吹き散り大根、金時にんじん、みず菜・・・・・
それらは今になお作りつづけているものもあれば、
もはや絶えてしまった品種もあるそうだが・・・・・・

デリケートな味に富んだ京の野菜、
その歴史的な野菜に対する都人の心のあらわれ
としての『お・・さん』つきであるとも思われる。
何しろ『おだい』などと言っていると、私の大事な
大根、という感じが濃厚にするのである。
鳴滝の大根煮などでもわかるように、京都の人は
大根のたいたのをとても大切にする。

説明しがたいのだが、京都の野菜と共に暮らしている
私たちには、ごく自然な言い方に思われて仕方がない。」
(~P166)

はい。本棚から寿岳章子著「暮らしの京ことば」(朝日選書)
を出してきて、京都的な『さん』をみつけようとしていたら、
この箇所があるのを見つけました(笑)。
はい。説明しがたい『うんこさん』の、やさしさ。

コメント (2)
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