ことわざに、「袖振り合うも多生の縁」とあります。
さしあたって、私のブログというのは、
『袖振り合うも多生の』古本というところ。
今年もさまざまな古本と出合えますように。
さまざまな古本を取りあげられますように。
はい。今年も本を肴にブログを更新します。
ちなみに、『多生(たしょう)』と『他生』とがあるそうで、
ことわざ辞典をひくと、
≪『多生』は、六道の間で何度も生まれ変わること。五百生。
『他生』は、この世以外の世。前世≫
「道を行く時、見知らぬ人と袖が触れ合う程度のことも、
前世からの因縁によるという意。どんな小さな事、
ちょっとした人との交渉も、偶然に起こるのではなく、
すべて深い宿縁によって起こるのだということ。
袖すり合うも多生の縁。袖の振り合わせも多生の縁。・・」
因縁というと、
何やら神社仏閣でえば、
仏閣が思い浮かびます。
わたしの町でも、お寺はさまざまあります。
ちなみに、うちは日蓮宗ですが、近場には
臨済宗もあります。臨済宗の檀家さんの家の玄関に
『脚下照顧』の四文字が、木札に書かれて柱にかけてありました。
この四文字。普通小型の辞書には載っておりませんでした。
ですから、この四文字は、ことわざ辞典でみつけられなかった。
ちょっと大きな辞書にあり、禅宗にかかわりのある言葉でした。
岩波四字熟語辞典をひらくと、ありました。
はい。せっかくなので引用しておきます。
「 脚下照顧(きゃっかしょうこ)
足元を見よ、の意。
ただ単に足元に注意せよという意味ではない。
外部にばかり気を取られたり理想を求めたりせず、
自己の内面を明らかにせよという内省をうながす言葉として、
禅宗で用いられる。
禅院の玄関にこの言葉が記してあるのは、
『履物を揃えよ』と両義に用いたもの。・・・・」(p148)
脚下と、は足元・足許。
え~と。そうそう。
長谷川伸著「わが『足許提灯の記』」(時事通信社・昭和38年)。
そのあとがきは、出版社の方が書かれておりました。
そこにこの本の題名になった言葉について指摘されておりました。
「題名の『足許提灯』は、301頁の終わりの
『足許提灯だとて考えなしに照らしたら、
足許が見えなかったり、目がまぶしかったりで
却ってない方が、足をさぐりながら危なくないくらい。
足許提灯も持ちよう次第である』
という一節から出ていると思われます。」(p320)
うん。わたしには、『足許提灯(あしもとちょうちん)』
というのは、現代のマスコミの言動に近いのじゃないか?
『かえってない方が、足をさぐりながら危なくないくらい。
足許提灯も持ちよう次第である』
こうして、足許を照らしてくれているはずなのに、
その危うさ、おぼつかなさを取りあげようとしたのかも。
さて、いつでも誰にでもおこりえる、この問題をどのように解決したか。
答えは、301頁にある『天ぷら蕎麦』という3ページの文にありました。
引用をしたくなるのですが、ここまで、
『考えなしに、照らしたら・・・・』
この短文が、私の引用で台無しになりそうです。