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映画「ハンナ・アーレント」

2014-01-18 05:42:38 | 映画(洋画:2013年以降主演女性)
映画「ハンナ・アーレント」を劇場で見た。
ナチス残党をイスラエルが裁くという歴史上重要な裁判場面を挿入した優れたノンフィクション系ドラマである。

ハンナ・アーレントの映画評を新聞で見たときには、あまり行く気にはならなかった。知性の殿堂「岩波ホール」をインテリ中高年が満員にしたなんて情報もあったので、「左翼ババア」好きの映画だと思っていた。でもキネマ旬報3位となれば、それなりの映画だろうと劇場に向かった。これは行ってよかった。でもこの映画の内容を正確に理解しようと思ったら、セリフの一つ一つを全部吟味しなければならないし、2度以上見ないとだめだろう。
映画に裁判のドキュメンタリー映像が挿入されるところがすごい。白黒映像のリアル感にはふるえる。

1960年、数多くのユダヤ人を収容所へ移送したナチスの幹部アドルフ・アイヒマンが、逃亡先で逮捕されイスラエルに護送された。主人公ハンナ・アーレント(バルバラ・スコヴァ)はドイツ系ユダヤ人の大学教授で専攻は哲学だ。彼女はナチスが政権をとった1933年にドイツを脱出している。その後フランスを経由してアメリカで生活している。
彼女はナチスの元幹部であるアイヒマンがイスラエルで裁かれると聞き、裁判の傍聴を希望し受け入れられた。

ハンナは聖地エルサレムの裁判所で歴史的裁判を傍聴した。そこでのアイヒマンは「あくまで上の命令で移送をしただけ」と主張する。ユダヤ人の虐殺に加わったわけではないと自身を弁護した。
ハンナはアイヒマンのイメージが予想していた像と違って極悪非道な人物ではなく、凡庸な人間ではないかと考えるようになる。イスラエルにいる友人たちにもアイヒマンをかばっているとも取れる発言をし始めた。しかし、彼女の真意はアイヒマンの「悪の凡庸さ」を主張するということなのである。ザ・ニューヨーカー誌にレポートを発表、その衝撃的な内容に世論は大騒ぎになり、ユダヤ人たちからの強い非難を浴びた。敬愛される哲学者から一転、世界中から激しいバッシングを浴びるようになったのだ。「考えることで、人間は強くなる」という信念のもと、思い悩みながら彼女はどうしたのか。。。

(アイヒマンの裁判と東京裁判)
戦争裁判は法典に基づいてされるわけではない。第二次世界大戦が終了し、ドイツではニュルンベルク裁判、東京では東京極東軍事裁判がおこなわれた。戦勝者が負けた国の幹部を裁くのである。アイヒマンの裁判もそれに通じる。そもそもイスラエルという国が大戦前に存在したわけではない。その国の司法当局になぜ裁かれねばならないのか?という大きな問題がある。しかし、冷戦の時代であっても、東西両陣営の幹部にはユダヤ人が多い。当然黙認してしまうのであろう。
そこでアイヒマンは無罪を主張する。あくまで上の命令であって自分の意思でしたことではないというのだ。

ここが東京裁判との大きな違いである。東京裁判では東條英機をはじめとしたA級戦犯たちが懸命に天皇をかばう。同時にマッカーサー天皇をそのまま生かしたほうが占領下日本の秩序が保てると理解し、すべてA級戦犯たちの責任にして天皇を無罪にしようとした。
東條は戦勝者に裁かれることは否定しても、天皇に責任があるとは言わないのだ。天皇は神だと洗脳されていたということもあるが、元々極刑になる運命と自分で認識していたからであろう。戦争中盤から後期にかけてには憲兵をひきいての暴走もあったが、ここでの東條英機の潔さは賞賛されるべきだと思う。

アイヒマンがどれほどまでの幹部だったか自分は理解していない。責任を取らされる。絞首刑だ。
一方日本では昭和23年12月23日東條英機元首相をはじめとしたA級戦犯の死刑執行があった後、その他の拘置されていた戦犯たちは釈放された。その中には岸信介首相もいる。しかも、10年という短い期間に総理にまで押しあがった。日本でも残虐行為を働いた人物で、一部戦後まもなくの軍事裁判で死刑になった人はいたが、他は拘置後釈放された。しかも、アイヒマンが逮捕された60年になったころ諸外国で日本人を裁こうとした外国人はいなかった。日本の軍部では辻政信のような奴がいて、占領下で姿をくらましているが処刑はされていない。

(ナチス処刑の責任の分散)
アイヒマンが主張したのは、自身の虐殺関与の否定である。これ自体はまさにその通りであろう。
経営学の本で、ナチスによるユダヤ人虐殺は「責任の分散」が最もうまくいった例として取り上げられているのを読んだ。何百万人というユダヤ人を殺したあの仕組みは、誰かが責任者だったというわけでなく「名簿をつくるだけ」「部屋に連れて行っただけ」「ボタンを押しただけ」のように担当を分散し、誰もが「自分の責任じゃない」状態をつくりだしたから、あれほどの大虐殺ができたと言われている。人類史上ここまで凄い役割分担はないかもしれない。関わった人物たちは最終的にユダヤ人がどうなるのか?知らなかった人が多いといわれる。薄々わかっていたとしても、究極的には理解していない可能性がある。

(悪の凡庸さ)
アーレントがアイヒマン裁判のレポートで導入した概念。上からの命令に忠実に従うアイヒマンのような小役人が、思考を放棄し、官僚組織の歯車になってしまうことで、ホロコーストのような巨悪に加担してしまうということ。悪は狂信者や変質者によって生まれるものではなく、ごく普通に生きていると思い込んでいる凡庸な一般人によって引き起こされてしまう事態を指している。(作品情報より)

恐ろしい話である。ハンナ・アーレントの言っていることは、自分が言及したことと同値である。虐殺の完ぺきなシステムを作るには、普通の一般人に究極の目的を教えることなく責任分散された任務を果たすようにすればいいことなのだ。

この映画感じることは他にもたくさんある。
ハンナ・アーレントも変わった人だ。この映画でも出てくるが、その昔哲学者のハイデッガーと不倫をしていた経験がある。今の亭主は他の女と浮気をしている。どうもそれはハンナも黙認しているようだ。普通常識を超越している世界に生きている。レポートをニューヨーカー誌に掲載してクレームがジャンジャンかかってきても、面倒なことは秘書に任せて別荘に逃げてしまう。無責任で秘書がかわいそう。傲慢でいやな女だ。


でもこの女の人が気になる。元々左翼女と思っていたら、どうやら主張を見ると反対のようだ。
同じドイツ系ユダヤ人に経営学者ピータードラッカーがいる。彼は初期の著書「経済人の終わり」で全体主義および共産主義を強く批判をした。同書より引用する。
「共産主義とファシズムが本質的に同じというわけではない。ファシズムは共産主義が幻想だと明らかになった後にやってくる段階なのだ。そしてヒトラー直前のドイツでと同様に、スターリン下のソ連において、それは幻想だと明らかになった。」
ドラッカーと同じ主旨を20世紀を代表するリバタリアニズム思想家であり、ノーベル経済学賞受賞のフリードリッヒ・ハイエクが「隷従への道」で取り上げ、共産主義を全体主義と同値にとらえて強く批判している。
「ファシズムと共産主義を研究してきた人々が。。。この両体制の下における諸条件は。。。驚くほど似ている事実を発見して衝撃を受けている」(「隷従への道」より引用)
ハイエクもドラッカーと同じくウィーン出身だ。華やかな当時のウィーンでは、ブルジョア階級でユダヤ人は75%を占めていたという。彼女も同じようなテイストの人らしい。俗に言う左翼ババアと正反対のようだ。不思議だよね?真逆なのに何で人気なのか?自分は気が合いそうなのでちょっと彼女を追いかけてみたい。
全体主義を論じた彼女自身の本も読みたいし、映画も何度も見てみたい。

エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告【新版
ハンナアーレントの示す悪の凡庸さ
みすず書房


ハンナ・アーレント
映像で観るハンナ・アーレント

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