「60の手習いとは、・・・手がけてきたことを・・・やり直すことをいうのだ」とか「・・・一々歌の意味や心を味わっていて、かるたがとれる道理はない」というような寸鉄人を刺すような名句が次々と出てくる本である。歌あわせかるたは多くあったが、何故小倉百人一首だけが残ったのか?百首の内容が深く響きあって一つの壮大な文学的作品になっているから、という興味をそそる導入がある。
現代人の通弊は古今・新古今の歌はつまらないと思っている。万葉集のほうが良いという。そんなことは正岡子規に教わらなくとも分かる。でも年老いてくると平安朝文化の奥の深さに魅力を感じてくる。こんな名調子の文が並んでいる。
百人一首の選者は定家で、嵯峨の山荘で、宇都宮頼綱のためにみずから書いて贈ったという。そこで白州正子さんは嵯峨野を歩いて、その後で一首、一首説明してくれる。
検証は精密を極め、学問的ですらある。しかし読んでみると流れるような文章力のお陰で「検証」とか「学問的」というような無粋な言葉を連想させない。
全てのことをインターネットで検索している自分が恥ずかしい。一冊の本全体の香りや完成度を楽しむことはインターネットとは別世界の楽しみと思う。
巻末に作者索引、百首索引、そして百人一首参考系図が付いている。とくに参考系図の中の人名には百人一首の歌の番号が順序良く付いている。百人一首の勉強をしたことの無い小生にとってはこれが一番有難い。百人の作者がみな天皇家か藤原家の2つの系図に入っているのもいろいろなことを暗示していると思う。
世の中に百人一首の歌を全て暗記している人々も多いが、この本をどのように評価しているのだろうか?コメントを頂ければ幸いです。
一般論ながら何かを検証した本の場合は、索引のついていない本は完成度が悪いと言われている。そんな本は読む価値が無いとも教わった。蛇足ながら。
最後に奥付を、「私の百人一首」白州正子著、新潮選書、昭和51年12月15日初版発行、発行所:株式会社新潮社、全242ページ