後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

昭和天皇の全国行幸、昭和21年から29年

2008年07月31日 | 日記・エッセイ・コラム

034

035 200804_hei_011 200804_hei_021 200804_hei_031 Sp_03new1

老人になると少年のころが無性に懐かしくなる。昭和11年に生まれたので、昭和天皇が懐かしい。

立川市の昭和記念公園の花みどり文化センターの中の昭和天皇記念館を訪れた。

展示はいろいろある。昭和21年から29年にわたる全国の津々浦々へ行幸なさったたときの白黒写真のスライドが大写し画面で、ゆっくりと流れる。筆者が住んでいた仙台市へいらした時のもある。小学6年生の秋であった。小旗を振ってお迎えした。展示のスライドは全国各地の人々の群れに囲まれた天皇のお姿が映っている。みな貧しげな服装であるが、顔が明るく輝いている。

この時ほど昭和天皇を身近に感じたことが無い。全国の都道府県をすべて巡幸された。沖縄県以外は。

沖縄では基地反対運動などで騒然とした時代が長く続く。そんな中で天皇の訪問は政治的に慎重にならざる得ない。ついに 昭和62年、沖縄国体の時、沖縄訪問の予定が決定する。しかし残念にもご病気で取り止めになる。

その時、代理でいらした皇太子に託した沖縄県民への手紙も展示してある。沖縄上陸作戦に民間人が巻き込まれ、悲惨な地上戦が3ケ月も続いた。そんな沖縄への切々たるお気持ちがあふれた文章である。人間性豊かな天皇であった。終世、沖縄訪問を願いつつ果たせなかった。

また展示室右手上には6枚の大型液晶画面があり87年のご生涯の映像が出る。

晩年にテレビ記者と会見したときのお元気な御声をかなり長時間聞くことができる。これは係の人に申し出て、是非お見逃しなく。

展示室の中央には昭和10年から52年までご愛用になられた箱形ベンツ乗用車が磨きあげて飾ってある。たびたび新聞写真でみた懐かしい乗用車です。

館内は撮影禁止なので入口のドアーと受付のところの2枚の写真以外は記念館のホームページ、http://www.f-showa.or.jp から引用しました。 下の列の左から2枚目は87年のご生涯の折々のお写真、3枚目は生物研究室の様子、4枚目は公務用の机、5枚目は昭和3年のご即位の折の行列の一部の様子です。

撮影日時;7月31日午前11時頃 (終わり)


外国体験のいろいろ(58)間違った作品も大歓迎のアメリカ文化

2008年07月31日 | 旅行記

日本ではどんな分野でも正当的な作品だけが尊重され、間違っている作品は厳しく拒否される傾向があります。間違いに目くじらを立て、許さないのです。でも間違いの作品の中に何か貴重なものがある場合も有ります。間違いを検討し、許す寛容性に欠ける文化と言えば言い過ぎでしょうか?
 
◆間違った論文が印刷公表される
 実験をして、その結果にもとづいて論文を書く。これが日本の大学の理工系の研究の主な研究方法です。ごく少数の研究者のみが実験抜きで理論だけで論文を書きます。しかし一生の間に一つくらいは実験をしないで理論だけで論文を書いてみたい。
 1980年に「溶融した化合物の伝熱、電気伝導、イオン移動の関係」についての理論的な論文を書いてアメリカの学会誌へ投稿しました。印刷公表される前に厳重な審査があるので有名な学会誌です。しばらくして審査結果が返ってきました。
 「この論文は非常に重要な問題を提案している。しかしその解答の数式には大きな間違いがある。新しい重要な問題を提案しているので、この論文は訂正なしでも即刻印刷公表すべし」
 その後いくら検討しても数式の間違いは見つからない。訂正なしで返送した。普通は掲載の順番待ちで6ケ月後くらいに印刷公表される学会誌が、まさしく即刻、翌月に訂正なしのまま掲載した。数式の間違いを自分で見つけたのは3年後。
 どの学会誌でも審査員は匿名である。審査結果に感動して学会誌の事務局へ手紙を送った、「非常に公平な審査結果を頂いたので審査員へ御礼の手紙を出したいので、住所・氏名を教えてください」
 クリーブランドにある大学のクレーガー教授であった。さすがに有名教授。「審査結果が素晴らしかった、感動したのでお礼状を差し上げます」と、航空便を送る。
 教授からは感謝してもらってうれしいという一行の返事がきた。その後、一度は会ってみたいと思ったがチャンスが無いまま何年かが過ぎた。
 ◆日本の学会誌の論文審査は全く異質
 日本の学会誌とアメリカの学会誌へ数多くの論文を投稿してみると審査の基準が全く違うことに驚く。日本の審査基準はまず、実験が精密に行われているか? その次に関係分野の過去の外国の論文を漏らさず読んで理解しているか? そして解答に少しの間違いも無いか?の3点に重点が置かれる。他の審査項目もあるがこの三点が重要視される。
 実験の精密さは研究者の実験技能による。職人としての技能の優劣である。関係の内外の論文を細大漏らさず読んでいるか否か?これは広範な知識の有無の審査であり研究の独創性とは無縁のことである。
 最後に解答の中のささいな間違いも許さない。小さな間違いでもあると、即刻、論文を却下する。取り上げている問題の重要性など考えない。大学の入学試験を始めとする日本の試験の採点方法と完全に一致している。受験戦争に勝った育った日本人研究者からは自然に支持される。誰も不思議に思わない。
 アメリカの学会誌の審査基準は、まずある分野の研究にとって新しい重要な問題を提案しているか? それを証明する理論的方法や実験方法が独創的であるか? 論文の結論として、どんな自然現象がどの程度に予測可能であるか? という3点が重要な審査基準になっている。もちろん、審査項目は他にも数個あるがこの三点が重視される。
 問題の提案の内容は新しい問題であることはもちろんであるが、もう一つその問題が関係する自然現象の解明にとって本当に重要であるか否かも慎重に審査される。
 アメリカの学会誌の投稿論文の審査基準は、提案されている問題の創造性・重要性、理論的解答方法や実験方法の独創性、そして自然現象の予測の可能性の三点が重要である。
 日本の学会誌の審査基準とは全く異質のものであることが明白である。
 「本来、人間の持っている独自の考えかた、独創性」は黄色人種も黒人も白人も同じである。が、それを発揮しやすい社会制度の有無や教育制度・内容によって大きな相違が生じる。文化の相違である。
 どちらが良いかはそれぞれの民族の自由であるが、独創性の違いの由来はお互いに良く
理解して置くことが重要ではなかろうか?
 ◆10年後にクレーガー教授に会う
 クレーガー教授に一度は会ってみたいと思いつつ、チャンスが無いまま年月が過ぎた。しかし、ついに十年後の1990年に、オハイオ州立大学で会えた。クリーブランドの大学を引退しオハイオの大学の客員教授で夏の三カ月だけ来ていたのだ。自己紹介の後、「クレーガー先生、1980年に私の投稿論文の審査をしてくれたのを憶えていらっしゃいますか?」「ああ、良く憶えているよ。審査結果に感動してお礼状をくれたので特に憶えているよ」「日本では見られないような審査結果でしたので感動したのです」「そうですか?あの審査結果の報告の形式はアメリカでは普通で、アメリカ人からはお礼状なんて来ません」
 聞けばオハイオでは小さな論文を一つだけ書けば良いので毎日ゴルフに行っているとのこと。ただ車が無いのでタクシーで通ってるという。
 すぐに送り迎えを申し出て三回ほどゴルフ場へ通う。四回目に、「勤務時間中に来てもらうのはやはり遠慮するよ」と丁重に断られる。あれ以来会っていないが永年の借りを返せたようで何か気持ちが良い。独創性のことを考える度にクレーガー教授のことを思い出す。
(この稿の終わり)