後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

フランケンシュタインの住んでいそうな民宿に泊まりました

2008年07月23日 | 旅行記

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(スイス観光局ホームページより)

暑い日々が続くので暑気払いに怖い話をもう一つお送りします。

1970年、夏、チューリッヒのそばの田舎の民宿に泊まった。上の写真のように晴天のチューリヒは素晴らしい。少し遊びすぎて夕方に出発し、レマン湖へと車を走らせた。やがてトップリと日が暮れる。田舎道には街灯も無く漆黒の闇。遠方の農家の明かりがかすかに見えるだけ。行けども、行けども民家が無い。やがて貧しげなに差し掛かる。古風な一軒の民宿がある。案内を乞うと、ドアが開いて中年の大男が無言で現れる。顔がフランケンシュタインに似ている。ドイツ語で一泊したいが、と言う。無言で頷き、入れという身振りをする。

2階の部屋へ泊まれという。薄暗い部屋には高さ3mもあるような古い洋服ダンスと堅いベットがある。何か出て来そうな気がしてタンスの方に眼が行ってしまう。フランケンシュタイン一族の子孫は、現在でもスイスに住んでいるという。それを思い出しながら廊下を見ると、そこに古風な扉付きの大きな本箱がある。そっと扉を開けてみると分厚い本が積んである。表紙を開いてみると人体解剖の図が、色彩鮮やかに多数印刷してある。髑髏や骨格の解説図もある。

怖くて眠れない。ウトウトしていたら真夜中になってしまった。は寝静まり物音一つしない。と、廊下の方でギ、ギーと扉が開く音がするではないか。家内も聞いたらしく、起きて見てきてという。意を決して見に行くと重い木の戸が半分開いている。誰も居ない。うず高く積んだ解剖書があるだけである。力いっぱい戸を閉めてくる。

朝、目が覚め窓から見下ろすと、民宿の娘がのパン焼き釜から棒状のパンを抱えて帰ってくる。

朝食は、パン、バター、ジャム、に大きなポットの熱い牛乳とコーヒーだけ。

怖い顔の主人が座り、やはり怖い雰囲気の妻と娘が無言で給仕してくれる。

ところが給仕の所作が実に丁寧で親切である。いかにも遠方から来た客人をもてなそうとしている気持ちがあふれている。暖かい雰囲気に包まれて質素な食事を楽しみながら、ゆっくりと食べる。朝食後、美味しかった。有難う。と主人へ言うとニャっとして「何処からですか?」、「シュツットガルトから来ました。日本人です。週末にはチューリッヒやボーデンゼーによく来ます」、「また是非ここに泊まって下さい」

本当にまた泊まってくださいと心から言ってくれる。何故、昨夜、彼らと話もせず部屋に上がったのが悔やまれる。フランケンシュタインの亡霊を怖がったのがウソのように思う。尚、フランケンシュタインの凄い画像を見たい方は下記のURLに12枚あります。怖がり症の方は見ないで下さい。(終わり)          http://www5d.biglobe.ne.jp/~gogomaru/sunanofre/sample2.html                  


宮沢賢治の「注文の多い料理店」を連想しながら、

2008年07月23日 | 旅行記

宮沢賢治が1933年、37歳で亡くなってから75年。「注文の多い料理店」を連想しながら昼食を食べたので、ご報告します。

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イギリス風の身なりで猟銃を持った2人の青年紳士が山奥に狩猟に行った。山の異様な雰囲気には気付いて、宿へ戻ろうとするが、山には一層強い風が吹き、木々がざわめいて、帰り道を見つけることができない。途方に暮れたとき、青年たちは西洋風の一軒家を発見する。そこには「西洋料理店 山猫軒」と記されている。 入ってみると、「当軒は注文の多い料理店ですからどうかそこはごしょうちください。」という注意書きがあるのに気付く。

注意書きの多さに、2人がいぶかしんだ頃、、、、、

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甲斐駒の麓の山林の中の小屋に泊っているとプロのシェフの作った料理が恋しくなる。でも近辺は山林ばかり。少し下がると水田が広がり、青々とした稲の匂いが夏風に漂うばかり。見渡す限り何も無い。

車を駆ってあちこち遠方までレストランを探しまわる。と、水田が尽き山林が始まるところに忽然と瀟洒なレストランがあるではないか。その時、フッと「注文の多い料理店」の中で、途方に暮れた青年たちが林の中で西洋風の一軒家を発見した様子を連想した。今は夏の真昼。どういう訳か幼少のころから、人気のない真昼に異様な恐怖感にとらわれる。

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「テラス」という店名の看板があるだけで森閑としている。不気味な気もしたが空腹には耐えられない。入ると誰もいないダイニングがあり、その向こうに広いテラスがある。営業中のようだ。

しばらくすると老紳士然とした主人が急に現れる。昔風の言葉で挨拶をして、席へ招き、冷水のグラスとメニューを差し出す。ハヤシライスとスパゲティを注文すると、「かしこまりました」と足音も無く消えて行く。それからは静寂の時間が長く続く。裏の林で鳴く蝉の声だけ。

待っている間、「注文の多い料理店」のストーリーを思い出している。まさか自分が食べられるとは思わないが、どんな料理が出て来るか不安である。一緒に行った家人が怖がり症なので宮沢賢治の童話の話はしないで待つ。

しばらくして主人が料理を持って来る。私、「ブログで紹介したいので写真を撮って良いですか?」、主人、「写真は良いですが、場所や電話番号を出さないでください。お客が多すぎると困りますので」

料理の味は?良く冷えたコーンポタージュスープが秀逸である。地元のトウモロコシと北蓼科のある牧場の牛乳と熊本の天然塩だけのスープだと主人が静かに説明する。

続く料理の味は年配の穏やかな夫妻の人柄が表れているようだ。料理の好みは人それぞれですね。

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とにかく、レストランの窓からの眺めが良い。稲の香りが涼しい風に乗って吹いて来る。蝉の声がする。そして宮沢賢治を連想させてくれた。ありがたい気持ちで帰路につく。場所は主人との約束があるので一切ご説明しない。皆様も旅先でこんな経験をなさったことがあるでしょうか?  (終わり)


外国体験のいろいろ(54)ドイツの幼稚園、小学校

2008年07月23日 | 旅行記

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最近は多くの日本人が家族連れで外国に在住している。子供の教育は各地の日本人学校か現地の学校か迷うと思う。以下はささやかな経験である。ご参考になればと思いご紹介します。
 ◆幼稚園発祥の地?
1969年―1970年、スツットガルトで七歳の娘と五歳の息子をドイツの小学校、幼稚園へ入れたときの顛末記。まず息子を近所の幼稚園へ連れて行き園長に会う。
 「園長先生、ぜひ息子を入園させてください」「この近所は移住して来たギリシャ人やトルコ人が多くて順番待ちが三十人ほどいて、とてもとても」
 「以前アメリカにいたが幼稚園のことは英語でもキンダーガーデンと言ってドイツが発祥の地と信じていました。その本物の幼稚園へ息子を一年だけでも入れてくださいませんか?」
 「ウーン、困った」「そこをなんとか」「仕方ない、一年だけという条件なら何とかしましょう」
 ドイツが幼稚園発祥の地と信じていますという話で園長先生の顔が誇らしげな笑顔になった。園長が言う。
 「貴方はさっきから英語ですが、うちではドイツ語だけですよ。教育方針は学習よりも小学校へ上がったときに集団生活ができるような訓練を『遊び』を通して行います。個性を殺さないで集団生活をするようにするのが幼稚園のモットーです。学力はつけません。貴方は科学者のようですが秀才教育は幼稚園ではしません。それを希望でしたなら家庭でしてください」「個性を殺さないで集団生活をさせるとは素晴らしいですね」
 園長は家内の方を向き「息子さんが来るときは必ず幼稚園の門まで送ってください。帰る時は必ず門の外で待っていてください。迎えに来るまで子供は帰しません。それから参観日以外は絶対に門の中に入らないでください。それがルールです」
 ドイツ語のできない息子は幼稚園の若い女のシュール先生にすっかりなついてしまい毎日が楽しそう。家ではよく先生の話をする。子供同士の遊びに必要なドイツ語はすぐ身につく。
 ◆小学校は職業学校のために
 続いて娘を小学校へ連れていく。今度は女の校長先生。
 「英語で失礼します。日本では2年生でしたので2年生に編入してくれませんか?」「良いですよ。ただし勉強について行けなかったら1年生にさがりますよ。明日から来てください」
 すんなり転校が決まる。
 「勉強は難しいのでしょうか?」「この小学校の卒業生の80%は職業学校に上がります。ドイツの大学進学率は6%ぐらいですから大部分は二、三年で卒業できる種々の職業学校に上がります」
 「大学へやるにはどうするのですか?」「この小学校を出て六年制のギムナジュームへ進みます。学力が必要と思ったら家庭でつけてください。この小学校の教育は大学進学のためではありません」「承知しました。それでは明日から宜しく御願いします」
 娘もドイツ語の書き取りには苦労したが、すぐに学校になじんだ。日本では小学一、二年のレベルの読み書き算術を重点にしたやさしい勉強なので苦労なしについていく。近所のパン工場を見学したり市役所を見に行ったりして地域の仕組みを丁寧に勉強する。理科もレベルの低い簡単な自然現象をその原因と結果の因果関係を何度も何度も丁寧に教える。
 一番感動したのは参観日に聞いた娘のクラスの合唱である。当時日本ではウイーン少年合唱団が有名でテレビで何度か聞いた。
 参観日の合唱はそれと差が無い。綺麗な声で唄う発声法がよく訓練されている。ハーモニーが美しい。日本の学校の音楽の授業では「大きな声を出して元気に唄いましょう!」
 当然大声でどなるような発声法になる。校庭での校歌斉唱でも声を枯らす。とにかく、芸術的でない。さすが、音楽の街、シュツットガルトの小学校だけのことはある。
 娘はすぐにドイツ語に慣れる。同級生の金髪のアントレアという小娘がよく家へ遊びに来るようになる。ドイツの地方都市にはお祭りが多い。アントレアの父親に連れられて娘があちこちの縁日見物へ出かける。大いに楽しいらしい。この様子をマックス・プランク研究所の同僚に話す。
 「転校なんて問題ないね」「でも大学まで進学させるなら良く考えた方が良いよ。大学への入学にはアビテウーアという大学受験資格試験に合格しなければならないよ」「随分と面倒なんですね」「そうさ。大学の卒業生は6%ぐらいしかいないエリートなんだから仕方ないよ」
 当時のドイツの教育内容・制度は職業教育かエリート教育かを峻別していた。現在は大学進学率も15%以上になり、大学卒業生も年々増えつつある。
 娘や息子の流暢なドイツ語は帰国後三カ月ぐらいで消えて無くなった。子供は覚えるのも早いが忘れるのも早い。その後ドイツの思い出を家族で良く話すが、ドイツ語は親の方が覚えている。
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写真はスツッツガルト市公式ホームページ(http://www.stuttgart.de/sde/menu/frame/top_11021.htm)より転載しました。上は市中心街の風景、下は郊外の緑地とブドウ畑の風景です。