後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本の188人の殉教者が列福される

2008年10月05日 | 日記・エッセイ・コラム

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日本のカトリックの歴史は1549年にザビエルの来日から始まります。今年は2008年なので459年の歴史があります。その間、26人の殉教者がローマ法王によって福者として認められ、のちに聖人の位に上げられました。

今年の11月24日には長崎のビックNスタジアムで日本のペトロ岐部を含む188人の殉教者を福者としてローマ法王が認める式典が行われます。

ローマのバチカンからは法王の代理の方が出席し式典を執り行います。

いつも、いい加減なカトリックの話を書いていますので、この際、正確な情報が詳細に出ているHPをご紹介いたします。

女子パウロ会のHPです。カトリックの教義から歴史まで実に明解に、そして良く整理分類されて公開してあります。部分的に拾い読みをしてもよく理解できます。

URLは:http://www.pauline.or.jp/historyofchurches/ です。

上の写真は長崎にある26聖人像の写真です。出典は、http://www004.upp.so-net.ne.jp/SPAT/nagasaki/KIKO-nag9-Photo-01-26Saints/KIKO-nag-Photo-26Saints.htm です。

日本のカトリック信者にとっては江戸時代260年の間の「隠れキリシタン」の時代が特に重要な意味を持っています。信仰のよりどころになっています。

女子パウロ会のHPには26聖人の詳しい説明もあります。今度、福者になる188人についてもいずれ詳しい説明が出ると思います。簡単に言えば188人の中で神父さんは数人だけで、あとは皆普通の信者です。ほぼ400年前に、棄教しないで処刑された人々です。

いつもの脱線を反省して、ここに正確な情報を提供しているホームページをご紹介致します。

(終わり)


アジアの風景、旅行記を楽しもう!

2008年10月05日 | 日記・エッセイ・コラム

傍(ばい)亜門さんのHPで「アジアの見聞録」というのを発見しました。URLは、http://homepage3.nifty.com/asia-kenbunroku/ です。昭和48年生まれですから現在35歳。

若々しい感性で写真を撮っています。以前、バンコックやカトマンズに25年住み着いている「ひかるの」さんのブログをご紹介しましたが、合わせてご覧になるとアジアの奥深い楽しさが理解出来そうです。ひかるの さんのブログは、( http://asiancloth.blog69.fc2.com ) です。

下に傍さんのHPから、韓国の農家の写真を3枚転載します。(メールを傍さんへ送りご了解を頂いています)。日本の農家や韓国の農家の写真を掲載するのは、日本の陸軍や海軍の軍備とのアンバランンスについて一文を書く予定があるからです。(終わり)

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転職と宗教的訓練

2008年10月05日 | 日記・エッセイ・コラム

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1988年から1990年までアメリカで働いていた。転職が普通な社会だ。時々転職の話になる。履歴書の書き方が非常に重要なのは日本と同じ。ある人が強調するには、宗教的訓練を受けたと書くと転職に有利になると言っていたのを、今朝思い出した。今日は日曜日、白内障の手術後の妻は留守番なので独りでミサへ行く予定。何しにミサへ行くのか?自分でも疑問である。強いて言えば「宗教的訓練」を受けに行くとしか言えない。

履歴書に、幼児のころから高校生まで教会へ通っていたと書くと、それが宗教的訓練を受けたと理解され採用されやすいそうだ。信仰の有無は問わない。訓練を根気よく受けられる人間は企業に入っても会社の方針に合わせて行動をしてくれると考えるそうだ。

イスラム教徒や仏教の人はどのように履歴書に書くか?この問いへ対して、アメリカ人が気楽に書けば良いという。イスラムなら毎日の礼拝を時間通うりに行っているとか、断食はちゃんとしていると書く。日本の仏教徒は?毎年お彼岸に墓掃除をして花と線香を上げる。お寺のお葬式に平均1年に一回出る。毎年元旦には神社にお参りに行く。そうのように書けば転職が有利になるそうだ。仏教徒であるか否かは問題外である。

アメリカの実利主義やプラグマティズムの側面を明解に示すような考え方である。

ミサに出席してキリストの言葉を聴こうとするのも、実社会では転職の役に立つというアメリカ的考えには恐れ入るだけである。信仰の有無は始めから度外視している。

そうとなれば気楽に教会のミサへ行ける。洗礼を受けているか否かは問題でない。いつも行く教会では洗礼を受けないで出席している人々も多い。まあそれだけの話です。(終わり)