後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

壮快なヨットの風景

2008年10月04日 | 写真

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今日は快晴のヨット日和。霞ヶ浦の係留地へ、10時ヨットの前に着く。月末のパーテイのため、デッキを洗い、キャビンを掃除し、テーブルを出す。11時30分出港、すぐメインセールを港内で上げる。向かい風を上る。4.0ノット。沖で風が止まる。エンジンと帆走を組み合わせて帰る。14時30分帰港。

6枚の写真に、青空を背景にしたメインセールの写真が2枚もあります。ヨット乗りならこのセールの形に、ご興味があるかと思い掲載しました。4本のバテンで9メートルのマストへ大きすぎるほどの特注のメインが上がっています。UKは香港製のセールです。前のオーナーがレース専門のヨットマンでセールが7枚も有りました。

抜けるような青空で秋風が涼しく吹いていた。帰りに昔、20年前に琵琶湖で購入し、その後10年間乗っていた、ヤマハ19に会う。彼は土浦の花火大会を湖上から楽しんでヨットに泊まると言う。15時に係留地を出て帰路につく。家には17時丁度に着く。

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外国体験のいろいろ(70)若い方々へのベトナム報告

2008年10月04日 | 旅行記

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(写真はハノイのあるホテル。第二次大戦まではフランスの植民地だったベトナムにはフランス風の建物が残っている。写真の出典:http://dsurpass.blog123.fc2.com/blog-entry-143.html )

                

◎ホンダバイクの奔流―サイゴン

 1994年、サイゴン、夏の夜のこと。目前の大きな通りいっぱいに、ホンダの50ccバイクが爆音をとどろかせ、後ろに2,3人の家族を乗せて大河の奔流のように流れて行く。ベトナム人家族の夜の娯楽である。1979年、米軍がサイゴンを放棄し、ヘリコプターで最後の脱出をしてから15年。思い返すとベトナムでは1945年の太平洋戦争の終結から30年ほど戦争が続いている。

1940年、フランス植民地だったベトナムへの日本軍の無血占領、戦後のフランスからの独立戦争、続いて中国・ソ連共産勢力とアメリカ軍との戦いと戦乱が続いた。最後はアメリカの敗北で終わった。バイクの流れの前に立ち尽くす私の脳裏を、ベトナムの過酷な歴史がかすめる。

@ホーチーミン記念館になびく吹き流し

記念館には、ホーチーミンの写真やディエンビンフーでフランス軍を壊滅させたグエンザップ将軍の写真などが、生前に使っていた家具や文房具類とともに展示してあった。記念館の屋根には、たくさんの横長の旗が生暑い風にハタハタとなびいている。

案内人の説明によると、「ホーチーミンはベトナム人の胸に生きている。いつまでも生きている」と書いてあるそうだ。

@残留日本兵の活躍と帰国後の話

第二次大戦の終戦後、日本に帰らず、ベトナムに残留した日本兵が多くいた。残留してホーチーミンの部下としてフランス軍と戦った。その後帰国した残留日本兵の話を聞いたことがある。

元日本兵が言う、 「作戦の最中、川を渡る時は、兵隊は下半身裸になり、将校を背負って渡る。残留日本人は皆将校になったので、ベトナム兵の肩に載って渡る」、「ところが、老人のホーチーミンは絶対に兵の背にのらない。ズボンをたくし上げて自分で歩いて渡って行く。背負われて渡る他の将校へ、歩いて渡れと命令しない。自分は自分で、他人へは命令しない。ホーチーミンはそのような男だった」

元日本兵はホーチーミンの部下として戦った六年間を人生の中で一番輝かしい期間だったと言う。尊敬できる総司令官、言葉をかけてくれる、親切な総司令官の下で働いたことを楽しく思い返しているようだ。

1951年になり、朝鮮戦争が始まる。ホーチーミンは残留日本兵に深い感謝を伝え、北京までの特別列車を仕立て送り返した。

元横浜正金銀行の幹部であったHさんも残留した。ホーチーミン軍の財務担当幹部としてベトナムの銀行制度の骨子を作ったという。Hさんが言う、「ホーチーミンは官僚主義を憎んでいた。ベトナム共産党もすぐに官僚的文化に染まった。彼は一般民衆の幸福を第一に考えいつもベトナム共産党の官僚主義と闘っていた」と語った。

日本人の若い人々が観光でベトナムを訪れることも多くなった。ベトナムが仏領インドシナというフランスの植民地だったこと、日本軍の無血占領、それから独立するまでの歴史を知っていたほうが良い。その間に日本人がどのように係わったかも知るほうが良い。(続く)