昔の農家を見るのは楽しい。農村風景は詩的な趣もあり、日本人の原風景として何故か懐かしい。しかし何度も見に行き、いろいろな考えをもってしまった。例えばこれらの農家は何時ごろまで実際に使われていたのか? 金持ちの農家だったのか?小作人の農家はどういうものか?などと考えだした。
川崎市の日本古民家園、小金井公園内の江戸東京建物園、小平市の小平ふるさと村などに展示されている農家が昭和40年代まで実際使用されていたのを知って愕然とした。しかも展示されている農家は裕福な大型農家である。上の始めの2枚の写真のような小作人や貧農の農家は小平市以外では展示されていない。右側3枚は裕福な農家とその台所の様子を写した写真である。1970年頃までは電灯とラジオがある以外江戸時代と変わらぬ生活水準であった。いや、もう少し正確に言えば、雨戸の内側にガラス戸が付いたこと、脱穀機などに電気モーターなどが使用されたことなど部分的には随分便利になった。それに義務教育が普及し誰でも小学校を卒業するようになった。しかし地主と小作人の関係はマッカーサーによる農地解放まで江戸時代とあまり変わっていない。農地解放前は地主だった老人のところへ、昔の小作人が野菜を持って来て、庭の地面に座って話していた。元地主は縁側の上に座って、元小作人を見下ろしながら談笑している。そんな光景を1962年の冬から元地主が死ぬまで何回か見た。元小作人は玄関からは入らない。縁側には座らない。住んでいた家は上の写真の左2枚と大同小異であった。それが終戦までの多くの農民の実態だった。筆者の疎開先の農家は全ての煮炊きを囲炉裏で行っていた。流石に囲炉裏の回りは土間でなく高い板敷きになっていて、奥には畳敷の部屋が2つあったが。電灯とラジオだけは有った。
稲の品種改良も進んでいなかったので冷害や旱魃の被害が大きく、特に東北地方では娘が身売りしたり女中奉公へ出たものである。
農村の窮乏の一方では軍需産業は隆盛を極め、国民の税金の多くは軍備へと費えた。
下のような写真にある軍艦や戦闘機、爆撃機の費用は想像を絶するような多額である。日本は何故このような酷い時代を通ったのか? 欧米との愚かな武力競争に邁進してしまったからである。このような軍隊の費用は農村を犠牲にして成り立っていたことを忘れてはならない。
古い農家、しかも裕福な立派な農家だけを展示してある展示場の欺瞞性を考えて観賞したほうが良いのではなかろうか。そんな思いをしたので上と下の写真を対比的に掲載して見ました。
日本は1867年、近代化革命でもあった明治維新が起き、欧米型の政府が出来た。その後、日清戦争、日露戦争に勝ち、日支事変、満州事変に続き太平洋戦争と突入して行った。1945年の敗戦で欧米との国力の差の大きさに目が覚める経験をした。そして戦争で疲弊した経済力は1970年ころから始まる高度成長まで立ち直らなかった。と、いうような通りいっぺんの歴史は学校で誰でも習う。しかし、1867年から1970年頃まで約100年間の農村の生活状態は、江戸時代とほとんど変わっていなかった。この事実は学校では強調されない。皆なが忘れつつある事実であろう。(終わり)
戦艦大和、金剛の写真の出典:http://battleship-pictures.xrea.jp/photograph_p/senkan/yamato.php
下列右3枚の写真の出典:http://www.naxnet.or.jp/~m-o/