ブログを書くのは楽しい作業です。それを投げ打って教会のミサへ行くのは、そのほうが何十倍も楽しいからです。別に真面目に教会へ通えば天国へ行けるからではありません。困った時にイエス様が助けてくれる訳でもありません。
神様の側にいること、イエス様の話を聞くことが嬉しいと感じるからです。生きている充実感を深く味わえるからです。このような種類の喜びが存在するのです。でもそれを楽しむためにはある程度の宗教的訓練が必要です。
西洋の油絵を見て楽しむためには数多くの美術館を訪問し、「自分が好きな絵」を探す努力をしなければならばない」とよく言われます。決して上手な絵を探すのでは有りません。すると油絵の側へ行っただけで楽しくなります。そして好きな絵が有ればもっと楽しくなります。
ですから教会へ行くのも一種の趣味のような側面もあります。しかしその喜びはもっと深く、根源的なものであります。
自由と平等な社会が欧米の社会の理想と言われています。貧富の差が無く、職業に貴賎の無い社会です。現実の欧米の社会はそうなっていません。
人間は神の前でしか自由で平等になれない哀れな存在なのです。ですから教会にいる間だけ真の平等感や自由な感じを実感出来るのです。
教会では自由に、もっと分かりやすく言えば、勝手に色々考えます。今日は唐時代の三蔵法師のことを考えていました。部族戦争の激しいシルクロードを通って無事インドへ行ったのです。道中、全ての部族に尊敬され大切にされました。インドでも10年以上も滞在し、言葉を覚え全ての経典を唐に持って帰りました。現在、日本で読まれているお経のほとんどは三蔵法師が長安で漢語へ翻訳したものです。
宇宙飛行士の幾人かは、遠方から青く光る地球を見て神の存在を実感したと聞きます。突拍子が無いようですが、時々三蔵法師のことを考えて神の存在を考えています。仏と神は別物でしょう。そんな考え方は小賢しくて、本当は愚かな人間が考えたことですから心配有りません。発想法の自由は教会で時々感じています。それも一つの精神的な深い楽しみです。
日本には260年間の禁教の時代に隠れて信仰を守った人々も居たのです。彼らの心の中を想像するのは困難です。しかし日本人は一度信じたものを絶対に捨てない節操を持っている証拠です。貴重な文化遺産と信じています。それが自分の信仰を支えているような気がします。
(続く)
子供の遊びに隠れん坊というものがありますね。鬼が隠れた子供を捜し、捕まえる遊びです。今日は隠れた人に筆者がつかまった話を少し書きます。
隠れた人とは隠れキリシタンのことで、その人々を探しまわっていたら信仰へ導かれカトリック信者になってしまいましたという筋書きです。
若い頃、世界各地の民族の生き方に興味があり色々手当たり次第に雑然と本を読んでいました。その雑多な本の中に、片岡弥吉の「長崎の殉教者」という本が混じっていました。昭和45年3月30日初版発行の「角川選書33」です。
隠れキリシタンはもちろん日本人ですが、何か別の種族のようで、興味本位に読んでいました。でも何か感動し、長崎市本原町35番地に住んでいた著者の片岡弥吉氏へ手紙を出しました。丁寧な御返事をいただきました。その返事に誘われて片岡氏の他の本を読み、その後で遠藤周作の「沈黙」を読みました。読む順序が偶然良かったので沈黙の意味がよく理解出来ました。戦国時代や江戸幕府の初期に捕まったキリシタンや外国人の神父を棄教させるために拷問にかけるのです。いくら長い間拷問を受けても神は助けに来ません。イエス様もマリア様も慰めに来てくれません。殉教して死が訪れるまで神は沈黙を守ります。これがカトリックの信仰です。どうしますか?
遠藤周作はこのような信仰のあり方に疑問を感じたからこそこの小説を書いたと想像できます。でも興味が倍加しました。神が困ったときに助けに来なくても良い。
そんな考え方を少し体験してみよう。一生続けるつもりは無く、気軽に洗礼を受けました。後で考えると「隠れキリシタン」に捕まってしまったようなものですね。
これからミサへ行きますので続きは帰ってきてから書きます。
片岡弥吉や隠れキリシタンは遠藤周作などの言葉をキーワードにして検索すると多くの情報が得られます(続く)